2004.10.5 By.T
久留倍遺跡(四日市市)探訪記-2
久留倍遺跡 |
長倉神社 |
遠保神社 |
采女八幡社 |
『壬申紀』は記します。
6月26日、遥拝のあった日です。
朝明郡家に近づいたころに、村国男依が早馬に乗って、大海人の前に姿をあらわし、「美濃の軍勢三千人を発して、不破の道をふさぐことができた」と報告します。
大海人は、すでに隊列に加わっていた高市皇子や大津皇子、そして男依とともに朝明郡家にはいりました。
そこで、軍議が開かれ、高市皇子を不破に派遣し軍事の総責任者とすることになります。
ついで大海人は、山背部小田・阿斗連阿可布を使者として東海道の軍の徴発のため派遣し、稚桜部臣五百瀬と土師連馬手を使者として東山道軍を徴発させるために派遣します。
この日、大海人の一行は桑名郡家まで進みます。
どこまで真実を伝えているか定めにくい記述ではありますが、朝明郡家も重要なポイントであったことはわかります。
尚、「郡家」という表現は後の時代の表記ですから、「評家」もしくは前身となる施設があったと考えておけばよいのでしょう。
さてレンタカーを利用した探訪は続きます。
伊香留賀神社を後にして、さらに周辺の細い道路を走らせます。
流路が見えますが、このあたりが米洗川なのでしょうか、などと会話しながら進んでいくうちに、突然、久留倍遺跡にぶつかったのでした。
私は2人の優秀な道案内に従って車を走らせていただけなんですが、「ちょっと止まってください」との声を聞いて左側を見ると、明らかに調査区域の様相、ここが遺跡であることがすぐわかりました。
目的地を見つけたのにちょっぴり感動しながら、車を降り、遠慮気味に遺跡の中を見学させていただくことにしました。
調査は中断中なのでしょうか、遺跡はビニールシートで覆われている箇所も多く見られ、未調査地域もあると思われますので、配慮しながら写真だけ取らせていただきました。
家を出るときには、現説に行くわけではないので案内もきっと出ていないだろうから、迷うだろうなと思っていました。
久留倍遺跡に行くには、三岐鉄道三岐線の大矢知駅で降り南へ10分程度歩けば着く、といった程度の情報しかありませんでしたので、名古屋駅での出会いのおかげで、レンタカーでの遺跡巡りが出来たことはラッキーだったとあらためて思ったものでした。
遺跡周辺を見学中に雨が激しくなり、慌てて車へ戻りました。
その南側にある長倉神社にも立ち寄ったところで当面の目標に達しました。
もう4時近くになっていました。
大矢知町のスーパーを見つけ、駐車場に車をとめ遅い昼食をとりました。
実は食事もトイレも我慢して2時間も車を走らせていたことになります。
なんでこんなに夢中になるのか、本当に物好きとしかいいようがないですね。
休息を取って、元気を回復した一行3名、再び行動開始です。
次に行ったのは、遠保神社、この神社の前を流れるのが海蔵川の支流、部田川です。
ここも迹大川の候補地の一つ、にあたります。
境内には遥拝所の石碑も立っています。
もう暗くなるし、そろそろ、おしまいにしたいなとひそかに思ってたんですが、元気な女性2名が同行してます。終了の声はありません。
次の目的地は、三重郡家と推定される、四日市采女町、采女八幡社を目指します。
実はカーナビがついていたのに操作を覚えるのが面倒なことも合って、ほとんどたよらずに2人の道案内で車を走らせてきました。
ここでどうにかゆとりが出来たせいか、道案内を機械に任せました。
無事に到着したこの社は鎌倉時代創建とされるようですが、品陀和気命、建速須佐之男命初め多くの神が祭られていました。
日も暮れて、私も大分疲れてきました。ここで探訪は終了としました。
残念ながら朝明川ならびに縄生廃寺にはいけませんでしたが、次の楽しみに取っておきます。
帰り道は、近鉄四日市駅にポイントをあわせて帰路につきました。走行距離は50キロぐらい、もう6時過ぎになっていたと思います。
車を返却してから、今度は徒歩で予約したホテルに向かいました。
このあとの夜の部には、ゲストをお招きしたのですが、差し障りもありますので秘密です。
12時ごろ酔っ払ってホテルに戻りました。
翌日は早朝からシンポジウムです。東京から来たわれわれみたいな物好きは、他にもいらっしゃったでしょうか。
地元の方々の熱意が、保存運動に欠かせないことなのですが、重要な遺跡であることは、われわれにも探訪してよくわかりました。
及ばずながら、この遺跡を知っていただくためにレポートさせていただきました。