2002.10.19 By.ゆみ

8月27日(木)

法門寺オプショナルツアーの後、帰路へ

法門寺〜西安空港〜成田


 とうとう中国最後の日の朝となった。

 午前中はフリータイムで、Y先生や徐先生は、お目当ての新装成った新華書店で、商売道具?の研究書や図録のショッピング。
 私はどうしても、20世紀最大の古代宝物発見といわれた法門寺に未練があった。
 といっても、法門寺は西安から138キロ離れた扶風県の北にあり、昼食までに西安に戻れるのか不安だった。
 ガイドさんの話では、最近高速道路が門前まで開通したので、なんとか行くだけなら可能とか。
 添乗員のKさんがお声をかけて希望者を募って下さり、バン1台での出発となった。

 車はやや渋滞の市内を抜け、順調に高速道路をとばして、2時間弱でめざす法門寺に着いた。
 澄みきった空に、十三層の宝塔がそびえたっていた。これが1987年の大修理の際、古代の地下宮殿が見つかった法門寺の宝塔である。
 見学時間は逆算すると30分もない。私たちは入場券を買うのももどかしく、大急ぎで宝塔の地下宮に入った。

 法門寺は後漢の恒帝と霊帝の時代(147−89)に建立され、北魏の時代まで阿育王(アショカ)寺と称された。古代インドのアショカ王は釈迦牟天が入寂した二百年後、(前272−前226)仏舎利を88400に分骨して世界各地に塔を建て供養したと伝えられ、中国では19基の仏真身舎利塔が建立、法門寺塔はその中で第五基といわれている。
 隋代(583年)に成実道場と改名、唐の高祖の武徳7年(624年)に法門寺と名付けられた。
 最初四層の木造だった法門寺塔は明代に潰れたため、現在の十三層の煉瓦造りの塔に造り直したが、清代に地震で塔が傾き、また、1981年8月雨で塔身の側面の半分が崩れてしまった。
 1987年、塔を修理中の4月、塔の地下に地宮を発見し、くしくも旧暦4月8日、地宮後室で一枚の仏の指の舎利が見つかった。
 この釈迦の本当の指とされる舎利(霊骨)は唐代の八重の宝石箱に納められ、ほかに霊骨から複製された3枚の影骨が漢白玉石製の小塔や菩薩舎利塔に安置されていた。
 まずは、きれいに修築された宝塔の地下宮で、この聖骨を拝観し、塔の周りを一周してから、隣接する博物館に向かった。

 法門寺塔の地宮は、またおびただしい宝器を1100年間沈黙して今に伝えた地下の宝物蔵でもあった。その秘蔵の逸品の保存と展示のため法門寺博物館が建てられている。
 長い間歴代の皇帝から崇められたこの寺院は、北魏や唐の時代、仏舎利を開帳する度に宮廷から多くの宝物が寄進されたという。
 1100年をへてこの世によみがえった品々は、唐朝文化の優雅さや唐代社会の繁栄がしのばれる第一級の工芸品で、幻のやきもの「秘色青磁(ひそくせいじ)」、我が国遣唐使も将来したと考えられる喫茶道具、金銀の舎利容器など、法門寺出土の秘宝が陳列されていた。
 残念ながら時間がなくて、その三分の一も見ることができなかったが、日本でもまたその秘宝展が催されることもあろうし、今回はその現地に触れえただけでも幸せだった。

「秘色青磁(ひそくせいじ)」の
八稜浄水瓶


金メッキの香嚢
(ジャイロ独楽の原理で水平を保つ)



 そそくさと境内と博物館のごく一部だけ見て、往路より多目の所要時間を見計らい帰路に着いた。
 順調に高速を走り、西安市内の入り口の阿房宮あたりまで来て、たいへんな車の渋滞にまきこまれた。
 実をいうと西安には信号はほとんどなく、ぎっちり詰まった車道を黍を満載した驢馬は通るし、交通ルールはなきが如し。昼食会場には少々遅れても、定時に飛行場に着かなければ帰国もアウト!
 反対車線をとばすは、数センチ刻みの割り込みはするは、運転手さんの「大冒険」が始まった。さらにガイドの劉さんが機転を働かせて、昼食会場に電話をしお弁当に詰めてもらい、昼食を終えて出発する直前の本隊と合流して、無事バスで飛行場に向かうことができた。
 最後になってハラハラドキドキのオプショナルツアーだったが、大満足。

 かくして、バスの中で昼食パーティをしながら、王陵の並ぶ景色を後に西安空港に着き、旅の思い出や見聞したたくさんの発見を胸に帰国の途についた。