2002.10.17 By.ゆみ
8月26日(月)
洛陽郊外の仏教遺跡と関址
鞏県石窟寺〜函谷関〜西安
この日は、洛陽から西へ約50kmの鞏県石窟へ寄った後、あとはひたすらさらに西へと高速道路を走って西安に戻るスケジュール。途中、あの函谷関に寄ってもらえることになった。
鞏県石窟寺は大力山の山裾、砂岩の断崖の下にあった。観光客もほとんど足をのばさないらしく、土産店も図録の売り場もなく、静かなたたずまいである。
北魂の考文帝が洛陽に遷都後(AD493年〜499年)に建立され、「希玄寺」と号した。宋代は「大力山十方浄土禅寺」、明代は「十方浄土禅寺」と呼ばれたが、清代から「石窟寺」と呼ばれるようになったという。
北魂石窟の一つで、石窟五ヶ所、県崖に彫刻した大仏三つ、小さい仏像千点程と彫像276点、石刻7759点が保存されている。
五つの石窟内は撮影禁止だが、窟の外側の摩崖三尊像などは、ゆっくりカメラにおさめることができた。
第1窟と第2窟の間にある摩崖三尊像 |
いかにも北魏仏らしいやさしい表情の摩崖三尊像 |
窟の外壁には、競うように東魏から唐代の庶民の小龕が彫られている 彫られた銘文も珍重されるのか、土産用の拓本採りで黒くなっていた。 |
鍵が閉まっている別料金の窟もある。 床にも彫刻が施されている窟では、徐先生は靴を脱いで入られた。 |
高速道路をバスはただひたすら西へ走り、途中、三門峡市内に入った。
巨大ダムで名高い三門峡市、その街中で昼食をとり、そして「天下第一関」と呼ばれる中国で最も古い関所「函谷関」に向かった。
函谷関は約3千年前の春秋戦国時代に建てられ、以来、日本軍侵略阻止の前線になった第二次大戦まで、歴史の節目に必ず登場する防衛拠点であった。
「箱根の山は天下の険 函谷関もものならず 万丈の山 千仭の谷」と「箱根八里」の歌に表現されているので、函谷関とはどんな峻険な山あいの関かと思っていたが、日本とは全く異なる大陸的で雄大な風景の中にあった。
洛陽-西安間の古道が、東北側に大きく開けた平野から漏斗状に狭まった谷を抜けていくその咽喉元にこの関はある。
故事「鶏鳴狗盗」*の舞台でもあり、また道教の始祖の老子が「道徳経」を著述したゆかりの地として、隣には道教寺院がある。
*戦国時代、孟嘗君が秦の昭王の追っ手から逃れる途中函谷関に辿り着き、夜中で門は閉まっていたが、孟嘗君の食客の一人がニワトリの鳴き声を真似ると、近くのニワトリがその声に誘われて時を告げ始めた。函谷関の門番は、夜が明けたと勘違いして門を開けてしまい、孟嘗君一行は虎口を脱出することができたという。
函谷関の楼門 |
復元された楼門と、洛陽-西安間の古道 (手前側が西安側) |
洛陽-西安間の函関古道(西安側の谷道を望む) |
楼門から見た東側(洛陽側)の平野 楼門から見た西側(西安側)の谷 |
「函関古道」の石碑と望楼 函関古道 |
「函関古道」の石碑裏面 歴代兵家必争の地であった「函谷関」の戦例が 楊貴妃の時代から第二次大戦まで列記されている |
車窓から、黄河と中原の大地 |
華山の山なみ |
黄河に沿って西へ走り、西安に戻った。
往きは曇りがちで、遠望がかすんでいたが、復路は快晴で、右手にゆったりと蛇行する黄河が、西安が近くなると、左手に華山がくっきりと見えた。
夕暮れに西安着、今晩は中国最後の晩。
西安名物の「餃子宴」で打ち上げパーティを楽しんだ。