2002.10.13 By.ゆみ

8月25日(日)午前

洛陽郊外の史跡と仏教遺跡

関林(関羽首塚)〜龍門石窟


 いよいよこの日は今回の旅のハイライト龍門石窟を訪ねる日、(それなのに私は、暑気あたりか朝から頭痛がしていたが、)その前に、関林に寄ることとなった。
 関林は三国志の英雄、関羽の墓。ちなみに「林」とは聖人の墳墓のことをいう。

 そういえば横浜中華街にも、華僑の人たちの心の拠り所として、りっぱな関帝廟がある。
 三国時代、蜀の名将関羽は呉の孫権と戦って敗れ、 孫権は魏の曹操に関羽の首を贈ったが、曹操はたたりを怖れその首をこの地に手厚く葬った。
 そしてこの義を重んじ犠牲となった関羽を、民衆は各地に信仰の対象として祭ってきたのだ。

 この廟の門前の広場には、参拝客目当てのお供え物や土産物を売る露店が連なり、さらにプロ?の物乞いなどもいてちょっとびっくり。
 庶民の信仰対象としては平将門を祭った神田明神が似ているかもしれない。

 この日は朝早いので境内にはまだ参拝客も少なく、すがすがしい。
 参道を行くと関帝の像を祭った三殿があり、その中には巨大な関公の神像や明代の小説『三国演義』の名場面を表した関羽・関平・周倉の三像などもあった。
 三殿の後方には高さ20mあまりの盛り土の関帝塚がある。 白い韮花が咲きほこり、雪をかぶったように美しかった。

 


門前広場では参拝用の大きな線香や紙のお金を売っている

狛犬が並ぶ静かな参道

二殿の関羽・関平・周倉像
寄進されたハデハデなマントが幾重にも掛けられていた

三殿の両側には石造物と石碑の展示室がある


 あこがれの龍門石窟に来た。
 新たに世界遺産に登録され、環境整備も進み、手前側にできた駐車場からゲートまで、電動のカートで行くようになっていた。

 満々と水をたたえた黄河の支流伊水。
 その両岸の断崖には1352の石窟と、10万の大小さまざまな仏像が彫られている。
 これらは、北魏から唐代にかけて約400年にわたり延々と造られ続けられ、三大廃仏や災害に耐えて残った貴重な仏教芸術である。
 中でも、北魏時代の「賓陽洞」の釈迦像と、「奉先寺」の釈迦大仏は図録だけでなく、ぜひこの目で見たかった憧れの名品であった。
 
 それにしてもこの硬い岩に、よくもまあ刻んだものだ。
 国家プロジェクトとして何年もの歳月と国力を投入した大規模なの石窟、そしてそれらの間のわずかに残るスペースに所狭しと刻まれた庶民の小さな仏たち。一体一体時代も様式もさまざまだが、仏に祈らざるえなかった時代であったと思われる。

 そして最後の圧巻は「奉先寺」の釈迦大仏。
 この唐時代の像に接したとき、私にはシルクロードの長い旅をしてきた釈迦像との印象を強く受けた。



唐代 「奉先寺」の盧舎那大仏 (高さ17.14m)

高く結い上げたガンダーラ風の縄目状の髪、
両肩を覆う通肩の衣、同心円を重ねる衣のひだ
清涼寺式釈迦像に共通な特徴がある

北魏時代の「賓陽洞」の釈迦像

長四角な顔、笑みをたたえた大きな目、高い鼻
重ね着した衣から中の衣の結び目が見える
法隆寺の釈迦三尊像も顔つきや衣が似ている




 わずかな隙間も埋め尽くす数々の仏像

 北魏・唐・宋の各時代に刻まれ、
 その様式もさまざま

 2cmほどの小さな像は、 
 一般の信徒によるものであろうか。



 本場中国で優れた古代仏像を見たいと思って中国に来たが、たび重なる戦火と災害のためか、お寺の本尊などは金ぴかに上塗りされた比較的新しい像が多く(むしろ民俗学的な興味があるが)、古きを訪ねるにはやはり、石窟に残された石像や、博物館にある出土した青銅像や石仏に味わい深いものがあった。
 
 龍門「奉先寺」の盧舎那大仏は、ガンダーラ風の縄目状の髪、はだに密着した通肩の衣の同心円状のひだ。 この衣文の特徴は、遠くインドマトゥラーから出土した仏立像に通じるように思えた。
 
 このインド風の衣・ガンダーラ風の髪、唐風の丸みを帯びた顔の像は、高宗・則天武后の時代、最も美しい造形を求めてたどり着いた究極の芸術であったろう。
 同時に十数mの硬い石に正確に像を刻む技術の確かさにもすばらしい。
 
 宋代、日本に請来された清涼寺式釈迦像もまたこの像に共通な特徴があるが、9世紀ごろ、この様式は一世を風靡したのだろうか。
 鎌倉極楽寺や大洋村大蔵の福泉寺の像がなんだか懐かしく感じられてきた。

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