2002.10.13 By.ゆみ
8月25日(日)午後
洛陽郊外の史跡と仏教遺跡U
天津橋〜白馬寺〜漢・魏洛陽城址
この日の午後、龍門をあとに、洛河を渡り洛陽の街に引き返した。
現市街とほぼ同じ位置の隋・唐洛陽城、その真ん中を東西に流れる洛河にかかる橋が、天津橋。
随の煬帝が洛陽城を築いた607年、宮城の正面の洛水を天ノ川に見立てて「天津」と名付けたという。
唐代に方石を橋脚とした石橋となり、「天津暁月」として唐の詩人たちにもうたわれた名橋は、今、コンクリートの天津橋の横に、モニュメントとしてその姿を留めていた。
持っていた漢詩の本の中から、孟郊の「洛橋晩望」の詩を劉さんに詠んでもらった。
そして洛陽の都城が意外にも「水の都」であったことを思った。
市内からまた15kmほど東へ行った郊外の漢・魏洛陽城と、そのころの中国仏教発祥の寺、白馬寺を訪ねることとなった。
この中国最初の仏教寺院の名は、67年、後漢の明帝が派遣した使者が、インドの高僧二人とともに、白馬に仏典を乗せて帰って来た事にちなむ。
白馬寺の赤い山門
兵火で焼かれる度に修復、唐代には則天武后によって
大改修され、現代は宋代の再建、明代の修復の伽藍が
残っている。
山門前の馬の石像
(これは宗代の文化財のなので囲いがしてある)
仏典の漢訳をしたという清涼台
最も古い遺構が残っている
白馬寺の縁起によると、後漢の明帝は夢のお告げを受け、西方の聖人の教えを受けるため、使者を送り出した。
その後、使者に伴われてインドから2人のという高僧が白馬に経典と仏画を乗せて洛陽に入り、朝廷に迎えられ、その翌年のAD68年、彼らのため寺院を建てて住まわせたのが、のちに白馬寺といわれたとのこと。
二人のインド僧は「清涼台」で仏典の漢訳を行ったという。
白馬寺に隣接して西側に尼寺がある。
ここには、金の大定15(1175)年に建立された13層の斉雲塔が聳え立っていた。
炎天下、五体投地で塔を回りながら礼拝をする家族連れや、しずかに数珠をつま繰りながらお経を売っている若い尼僧の姿も見られた。
尼僧の指導で斉雲塔の周りを五体投地で礼拝する家族
夏のひととき、静かな境内でそれぞれ思い思いに憩う人々
鶏頭の咲き乱れる庭園で、手芸?にいそしむ女性 静かに時間が流れていく |
風の通る渡り廊下で涼む親子 (ご当地の子供はオムツはせず、 真ん中を縫っていない涼しく便利なパンツを はいている。) この白馬は文化財ではないので、 乗って写真を撮ってもよいらしい。ハイポーズ! |
白馬寺の次に漢・魏洛陽城の遺構を探して、いよいよまたアドベンチャーツアーを再開することになった。
「後漢」と「魏」の都は、弥生時代に「奴」や「伊都」、さらには「邪馬台」のクニの王たちが、朝貢の使を派遣した世界の中心都市だった。
その故城祉は今はもう、畑の中に点在する土手状の遺構としてしか、もはや原型を留めていないが、しっかりとした版築構造や、延々とはるかかなたまで緑の高まりが伸びている様子に、当時の築城技術とその規模の大きさを改めて思い知らされた感がした。
白馬寺の前の国道沿いに「漢魏故城祉」の石碑がある。 ここはもう一面畑に削平されて、 畑道に城壁のラインのみを偲ぶだけのようだ。 |
しばらく行くと、国道の反対側に、土手のような盛り上がりがあった。 それに沿って畑の中をいくと、線路にぶつかった。 |
線路の向こう側にも、土手は続いていた。 確認のため、線路を渡ってみる |
畑の中にしっかりとした版築の遺構が残っていた。 足元には、瓦なども見つかり、これこそ、漢の城壁跡! |
奥へ行くと、幅も高さも大きくなる。 崖下には潅木が繁茂して高さはわかりづらいが、 10m以上あり、版築技法の造成痕も確認することができる。 |