2002.10.25 By.ゆみ
8月24日(土)
東都洛陽の都城址と古代銅鏡
隋唐洛陽城〜含嘉倉〜洛陽博物館
洛陽は西安と並ぶ古代都城であった。西安(長安)の副都であったり、則天武后が新都と称して気まぐれのように遷都したり、なぜかこの二都を楕円の2つの中心のようにして中国古代史は展開していく。
「奴(な)」の金印を授けた後漢の光武帝、遣隋使から「日いづる所の天子、書を日ぼっする所の天子に致す」の書簡をを受けとった隋の煬帝の都も洛陽。
西安から300km東のその古都へは、ふつう列車で数時間かかるらしかったが、開通したばかりの高速道路で行くことになった。
長距離の道のりを飽きないよう、ガイドの劉さんが、娘さんから宇多田ひかるのDVDを借りてきてバスのTVでかけてくれたが、車窓の景色を見ているうちに、バスはいつのまにか華山の北裾を走り、河南省に入っていった。
昨年のウルムチ-トルファン間の自動車道は、荒涼たる砂漠や塩湖、遊牧地を貫いていたが、今年の旅はさすが中原の地、広い段丘や山の中腹まで緑の黍畑が続き、その向こうに黄河がゆったりと流れている。河の向こう岸を走る長い列車と速度を競いながら、やがて昼過ぎ洛陽についた。
昼食後、天津橋に近いテレビアンテナ群の奥にある周公廟院を訪ねた。 定鼎堂という殿堂の横には「日本国遣隋使遣唐使訪都之地」という記念碑があり、後ろには都城博物館があって、隋唐洛陽城の復元模型を見ながら当時の都城の様子を女性の研究員に解説していただいた。
周公廟・定鼎堂
都城博物館(といっても資料館のたたずまい)
「日本国遣隋使遣唐使訪都之地」記念碑
隋の時代、煬帝によって造られた新都は6〜7kmの城壁に囲まれた巨大な都城で、水運の動脈ともいうべき洛水の流れが真ん中を貫いていた。その天津橋の北側に皇城が、その奥に宮城が築かれた。
唐になると、いったん西安に遷都したが、則天武后は、再び洛陽を首都にし、外郭城を築かせ、城門を改築して整備するとともに、長安周辺の七州数十戸の住民をここへ移住させたと記録は伝えている。
ただあまりに長大な都城のため、朝廷や市場から遠い南の坊は人があまり住まない鬱蒼とした園林地だったという。
ここ周公廟は、ちょうど宮城の南の門である応天門に位置している。
その応天門門の東北の基壇の一部が残っていて、その上まで案内してもらうことにした。
門は、ジグザグに3回折れ曲がった「三出闕」という様式の壁に囲まれたスペースを持つ形をしている。
城壁の上から洛陽の街並みが望まれる。中高層の比較的新しい建物が多く、今は古都の雰囲気は残っていないようだ。
隋唐洛陽城の東北には「含嘉倉城」という一角があった。
食料の地下貯蔵庫で、直径10〜18m、深さ6〜12mのすり鉢上の大きな「含嘉倉」が300もあったという。
そのひとつが発掘調査後、保存されて、これを見学する。
都城の北側に沿って線路が通っているが、見学用の「含嘉倉」はまさにその際にあった。
「隴海線」の鉄路際に含嘉倉はある シルクロードからの長い貨車が往復している |
建物の中には粟を貯蔵した穴倉が保存されている。 管理人さんが着くまで、しばし休憩。 そのうち、近所の子供たちがやってきた。 |
中に巨大な穴倉があったが、撮影禁止。 解説のパネルだけ撮ってきた |
含嘉倉城の位置と貯蔵穴の分布図(奈良文化財研究所『日中古代都城図録』より) (クリックすると大きくなります) |
「この建物の中には何があるの?」と質問。 子供たちは 「アワがあるの」と教えてくれた。 なるほど! |
「学校は?」と聞くと一人の子は首を横にふった。 中国は独り子政策のため、2人目は学校に行けない。 でもみんな元気で仲良し。 「再見!」 |
夕方、洛陽博物館を訪ねた。唐三彩のコレクションでは、質・量ともに群を抜いているという。
私たちが、興味を持ったのは、青銅器のコーナー。
Tが「これは三角縁神獣鏡ではないか」と言い出し、団長先生・徐先生みな集まってきて、議論している。
後漢時代(AD25-220)の径18.2cmとちょっと小ぶりの「王公王母画像鏡」。内区の図柄は神仙思想、平縁でなくあきらかな三角縁。「三角縁神獣鏡」の中国出土例なのかと、色めきたった。
なぜなら、「三角縁神獣鏡」は、「中国から出土しない」ので「日本で造られた」とか、「本当に卑弥呼の鏡?」とか、「魏が倭の好みで特鋳した」などにぎやかにいわれてきたからだ。
この博物館は、写真撮影禁止。「定説」を覆すには、図録の写真では縁の立面の様子が物足りなく、ちょっと残念。