2002.10.3 By.ゆみ

8月23日(金)

西安郊外・市内の史跡めぐりU

咸陽の漢茂陵〜霍去病墓〜興慶宮〜陜西省歴史博物館

 バスは西安から、咸陽を過ぎて渭北高原約45キロひたすら西へ走る。やがて車窓の右手に遠く小山が見えてきたところで右折した。道は工事中で難路、でも山はどんどん近づいてきて、やっとそれがめざす「茂陵」とわかった。
 
 茂陵は漢の第五代皇帝・武帝劉徹の墓。彼は紀元前141年、16歳で即位し、紀元前87年、70歳で亡くなった。その在位中にシルクロードを開通し、漢民族の国に安定と繁栄をもたらした。(武帝は第5代?か第7代?、数え方で2説あるらしく、Tが陵の上で議論していた。)
 在位期間が長かっただけあって前漢の皇帝陵の中で最大、また租税の三分の一が墓造りや副葬品の買い入れに用いられていたという。
 
 その小山のような陵に登った。
 形は覆斗形で、四角錐の上を切り取った形であった。


茂陵に登る

頂上から見た南の景色、地平線がかすんでいる。


英陵(李夫人の墓)
  
  頂からはいくつもの陪塚が見える。
  夫人や霍去病などの皇族・大臣の墓という。
  大きな陵墓も群れなして小さくみえる。
  中原の大地はとめどもなく果てしなく広く、
 地平線がかすんで見えた。

  霍去病は、6回におよぶ匈奴との戦いで功績をあげ、
 24歳の若さでなくなった英雄。
  武帝はその死を悼み、丁重に葬った。
 
  その霍去病の墓を訪ねた。
 見学用の施設も充実していて、
 副葬品や墓に伴う丸彫りの石像などを、
 見ることができる。
 
 

茂陵から見た武帝の臣下の墓(右が衛青、左の亭のあるのが霍去病)


陵の上に亭がある霍去病の墓

たくさんの動物の石刻があるが、これはなんだろう。

これも副葬品(漢代の女性の俑) 

             


 午後は、西安市内に戻り、興慶宮公園陜西省歴史博物館を見学した。

 玄宗皇帝の兄弟や王子たちの御殿として造営された唐代の興慶宮は、玄宗が728年にここで政務を執るようになってから、大明宮に代わる唐代の政治の中心地となった。
 皇帝が詔勅を公布したり、公式の宴会を行ったり、外国の賓客と会見したその「勤政務本楼」が公園の一角に残っている。といってもその後、玄宗皇帝は楊貴妃とここで歓楽に明け暮れたという。
 李白を呼んで作らせた詩「清平調」は、「名花傾国両つながら相喜ぶ、常に君王の笑いを帯びて見るを得たり、春風無限の恨みを解釈し、沈香亭の北欄干に倚る」とその様子を詠った。

 興慶宮公園の中に阿倍仲麻呂の記念碑があった。1979年、日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して建てられた大理石の美しい記念碑である。

 側面には、阿倍仲麻呂が故郷奈良を偲んで詠んだ望郷詩が刻まれている。 
 「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

 仲麻呂は753年、唐王朝官僚の身分のまま帰国の途につき、鑑真を日本に誘った。
 渡航は困難を極め大部分の人が遭難、仲麻呂は漂流し、二年後の755年長安に生還した。
 李白は彼の遭難の情報に、仲麻呂を哭す詩を詠んだ。その詩もまた側面に記され、二人の友情を伝えていた。



阿倍仲麻呂の記念碑

仲麻呂は当時の国会図書館長、
その跡の休憩所の中では書画が展示販売されていた




 陜西省歴史博物館は、中国一の所蔵品を誇るというから、アジア最大の博物館であろう。
唐代の建築様式を取り入れた建物やロビーの巨大な狛犬に圧倒されて、そのたたずまいを撮影し忘れてしまった。

 有名な唐代の壁画展示は、今は保存のため非公開であったが、原始社会から明までの文化財がここに集められている。
一堂にして中国の5000年の歴史を巡ることができるという展示は、膨大すぎるので、、私は3つに限ってテーマをしぼり、端からカメラに収めながら見ることにした。ここは撮影OKという「現代的」な博物館。といっても、ガラスケースに反射するフラッシュをOFFにして撮ったので、ほとんど手ぶれし、うまく写ったのは少なかった。

 展示室に入ってから、とっさに決めた私の恣意的なテーマは、@三本足の煮炊きのための鍋の変遷 Aガンダーラの影響の色濃い石仏 B各時代の貴婦人の俑。 あとはさっとしか見ないようにしたが、それでも5000年前の龍山文化から明代まで、鍋も石仏も人形も、限りなくたくさんあった。 

 その晩は、オプショナルで、唐代の歌舞のショーを見に行った。 明日は洛陽へ向かう。 旅行の日程もちょうど半分を終えた夜だった。



鼎のルーツ、龍山文化の炊器。
これが青銅器になると、複雑な文様の鼎になることがわかった。

華やかな唐代の楽舞俑