トルファンの史跡 2 | ||||
アスターナ古墓群 高昌国住民と唐代西州住民の墓地 墓室には、壁画やミイラがまだ残されていた |
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高昌故城 | ||||
広い城域内をろば車で見学する観光地になっていた | 観光客相手の商売も熱心、冬は学校のきらいな勉強があるので、 今が楽しいみたい |
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民芸のバックを売るため、少女が自転車でかろやかに追いかけて来る | 麹氏高昌国から約千年間都だった時の版築で造られた城壁や仏塔、 今は建物の残がいが残るのみ |
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遠くに火焔山の縦縞の山腹が見える | 面積200万平米、周囲約5km、一部農地になっていたりして、 昔の繁栄を偲ぶのはむずかしい |
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寺院跡、ここに仏像が並んでいたはず 僧玄奘が、インドに仏典を求める旅の途中、この都の王麹文秦に |
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ベゼクリク千仏洞 | ||||
高昌城の都が栄えていた頃の石窟で、 壁画や仏像がたくさんあった。 イスラム教徒と百年前の外国人探検隊に破壊された跡が痛々しい。 もちろん中は撮影禁止 |
石窟の遺跡は火焔山の中腹に並び、眼下にムルトウク河沿いの わずかな緑の耕地が続く |
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火焔山の記念撮影ポイント、胡曲をかなで、ラクダに乗る客を呼ぶ ウィグルの若者 |
トルファン富士? 見ていても ものすごく暑そう |
高昌国
かつて麹氏高昌国がありました。この国は、仏教がさかんで石窟寺院も多く作られたのです。
前漢時代にこの地に残留した漢族の兵士が高昌壁をつくったのが、始まりとなって土着の漢人が支配していたようです。現地ガイドの方の説明では、麹氏は純粋の漢人ではなく混血だとのことでした。北方遊牧民の勢力もまたこの地と深くかかわりを持っていたようです。
おなじみの玄奘三蔵がこの地を訪れた時(628年)の王は、麹文泰といいます。その麹文泰は玄奘に心酔し、高昌国にとどまるよう懇請したのですが、玄奘はインドに旅立ちます。ところが、帰途立ち寄ろうとしたころにはこの国はもうなかった。麹氏高昌国は640年、唐の攻撃の前に破れ直轄領となってしまったからです。
陳舜臣は、麹氏高昌国について「どうやら一種のかいらい政権であったようだ」(『西域余聞』、朝日新聞社)と述べています。
西突厥が支配するトルコ系部族の鉄勒(チュルク)が、通行する隊商に課税していたというのです。(ちなみに突厥(トックツ)とはチュルクの複数形らしい)
麹氏高昌国は交易による利益を西突厥に与えるかわりに武力を西突厥にもとめる、という関係が成り立っていたとされます。
麹文泰は唐の太宗を甘く見ていました。まさか7000里はなれた、高昌国へ討伐軍は送るまい。しかし貞観13年(639)、群臣の反対にも耳をかさず太宗は遠征軍を出したのです。これにおそれた麹文泰は病を発して亡くなった、ということです。翌貞観14年(640)、唐の大軍は高昌城に達したとき西突厥はまったく頼りにならなかったといいます。
以来、太宗はこの地を直接統治することになりました。
玄奘は『大唐西域記』にこの地を「高昌故地」と書いたのです。まだ西州の地名に馴染みが薄かったころだったせいだろうと、陳舜臣氏は結んでいます。
色川大吉氏は名著『シルクロード悠遊』(筑摩書房、1986年)で高昌城址の崩壊を嘆いておられます。伽藍の復元作業は、復元ではなく「歴史的な原形を奪い、私たちの想像力を殺ぐ」と厳しく指摘しておられました。現在、この書は絶版となってしまいましたが、『シルクロード遺跡と現代』(小学館、1998年)の第1章は『シルクロード悠遊』からの転載なので、この記述を読むことができます。ただし書き直されている箇所もあり、引用した文章が含まれる「高昌城址−復元」の項は削除されています。しかし、新たに書き加えられたのは、各国探検隊の掠奪に対する厳しい視線です。日本の大谷探検隊についても、「彼らの一人一人は使命感に溢れた勇敢な探検家であったにもかかわらず、やはり国威を背中にした帝国主義の尖兵の役割をまぬがれてはいなかったのである」と。
アスターナ古墳は高昌故城の北にあります。極度に乾燥した気候のため、遺体がミイラ化しているので有名です。ウルムチの新彊ウィグル自治区博物館では、有名な楼蘭美女のミイラも見ることができました。
色川大吉『シルクロード悠遊』から再び引用します。
「現地でじっさいに暗い墓室の奥まで入り、夫婦2対が並んでいたミイラを見たときの印象は強烈であった。とくに女のミイラは足元をきつく縛られ、目をカッと見開き、泣き叫ぶように口を大きくあけ、凄まじい形相をしていた。この女はむりやり埋葬させられたのであろうか。たしかなことは分からない。」
おー、こわーい!(この記述は『シルクロード遺跡と現代』版ではカットされていますので書いておくことにしたものです。)
色川先生がごらんになったと同じ墓室かはわかりませんが、二体のミイラが、並べられた墓室も見学しました。一体は、「目をカッと見開」いているように確かに思えたのですが、ガイドの方の説明によれば、もとは別の墓にあったものを、並べているだけだという。色川先生の本を事前に読んでいたためびくついいていたのですが、なぜかほっとしました。(T)
蘇公塔 1779年トルファン郡王スレイマンが父のためにたてた塔 イスラム様式のレンガの模様が美しい
モスクの上からは街が一望できた