2004.5.5 By.ゆみ


2004.4.26-29 

幻の百済李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記 U





定林寺跡に建つ百済の五層石塔

  


石塔初層の塔身に刻まれた碑文が
百済滅亡の「そのとき」を語る


第2日目(4月27日) 1.扶余(プヨ)の定林寺跡へ

 一夜明けて、いよいよ百済の古都、扶余へ向かいます。
 百済王国の最後の都「泗ヒ(サビ)城」のあった扶余。

 昨年、慶州で新羅の残したものをじっくり堪能できたことの続きとして、より密接な文化的影響を日本に与えた百済の文化遺産との出会いを期待していたのですが、道中、ガイドさんの説明は、「武寧王陵が発見されるまで、百済時代の文化財は、定林寺跡の石塔しか地上に存在しなかった」とのこと。

 新羅・唐連合軍の攻撃に全てを失い、扶余は山と水の清らかな自然に囲まれて、目立たぬ地方都市として現代におよんでいるそうです。

 やがて、まだ雨の残る中、バスは定林寺跡に着きました。
 門を入ると池の向こうに、美しい形の大きな五層石塔が建ち、その後には講堂が再建されています。
 講堂の壁や築地塀の暖色の色彩が、春の雨にやわらかく映えます。

 説明板によると、この寺院跡は百済が扶余に王都を定めた時の中心寺院で、この石塔のほか、高麗時代の石仏坐像が残っているとのこと。
 そして、この石仏のある建物址から瓦が発見され、その銘文から、太平八年(1028)高麗の時代に「定林寺」と呼ばれていたこの寺の講堂跡に再び建物を建て「大蔵殿」と呼んでいたと、いうことがわかったそうです

 中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ伽藍配置で、これは日本には、四天王寺式伽藍配置として伝わっています。

 木造の塔を、そのまま巧みな石造りで組み上げた技術はすばらしく、そして石で建てた結果として、この塔は戦火に耐えて、百済の仏教文化の象徴として今に残りました。
 皮肉にも、百済を攻めた唐の将軍蘇定方は、この石塔初層の塔身に戦勝を記念して「大唐平百済国碑銘」と刻み、この銘文によって、百済滅亡の「そのとき」の歴史を今の私たちに語ることとなったのです。

 戦禍をくぐり、今もなおしっかりと立つ五層石塔。
 力強く天にそびえるこの石塔を見上げながら、その姿をとてもいとおしく感じました。


実はこんなに大きかったのです

芝桜が春の雨に雲のよう


 最近復元された講堂に入ってみました。
 とてもユーモラスで親しみやすい石仏が微笑んでいます。
 火災と激しい摩耗によって尊像の区別がやっと見分けられるだけですが、高麗時代の毘盧舎那仏坐像とのこと。
 幾重にも重ねられた基壇も損傷していますが、石工の確かな技術を伝えていました。


台座の石組み

高麗時代の毘盧舎那仏坐像