2004.5.11 By.ゆみ


2004.4.26-29 

幻の百済李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記




落花岩投身・皐蘭寺にて

第2日目(4月27日) 2.扶蘇山城〜落花岩〜白馬江へ
 昨年、新羅の史跡を巡った時は、旅の最後に新羅滅亡の遺跡「鮑石亭址」を訪ねましたが、今回は歴史を遡るように、百済滅亡の舞台・扶蘇山からスタートしました。

扶蘇山城入り口の門

扶蘇山西腹寺址


 百済の建国神話は、紀元前18年に馬韓の小さな国々の中より「伯済国」が、ソウル付近の漢江東部に都を築いて発展し、4世紀には近肖古王が半島西部を支配する王国となって内外に知られるようになったといいます。
 やがて百済は、高句麗の長寿王の南進により、475年首都漢城を落とされて、都を南の熊津(ウンジン)に遷しました。

 その後、武寧王のころ中興を果たし、その子聖王は、538年さらに南の現在の扶余に遷都し、白馬江のほとりに「寺々は星のよう、塔々は雁のよう」という「泗ヒ(サビ)城」繁栄の時代を築きました。
 この仏教をあつく重んじた聖王こそ、日本にその仏教をもたらした聖明王だったのです。

 その百済の栄華も、660年新羅と唐の連合軍が襲われて、サビの都はあっけなく落ちます。
 唐軍15万、武烈王と金ユシン将軍率いる5万の新羅軍に対し、ケベク将軍率いる百済軍は5千だったといいます。
 バスが街中を通ったとき、ロータリーで見たのはそのケベク将軍の像で、自らの手で妻子の首を切って勇敢に戦死した百済の敵将を、金将軍も讃えたという逸話が残っています。
 そういえば、この金ユシン将軍は、新羅貴族の青少年の結社「花郎(ファラン)」の出身で、その気高いモラルと教養、訓練された武力が、統一新羅の牽引力になったことを思い出しました。(「加耶・新羅史跡めぐりの旅日記」 2003 「新羅千年王国の慶州」参照)

 扶蘇山の山頂へ向け、雨に濡れた新緑がみずみずしい、ゆるやかな山道を登っていきます。
 戦時には逃げ込み用の詰城として機能したこの丘も、平和な日々は、貴族たちが優雅に連れ立って山寺に参り、高楼に遊んで景観をめでていたのでしょう。

 途中、「扶蘇山西腹寺址」と記された石碑とその後に、伽藍基壇址の遺構が見えました。
 1980年に発掘調査された山寺で、中門・塔・金堂が南北一直線に並ぶ一塔一金堂式の伽藍配置で、講堂がないことから、百済王室に関連した内苑の祈願寺であったということです。
 いまは、遺構の芝の上で、カササギが優雅に遊んでいました。


アンニョン・ハセヨ! 小学校5年生が見学に訪れていました。頂上広場付近のお土産屋にて

山頂付近に建つサビ楼

サビ楼から扶余の佳景を望む
 山頂付近には、昔、月見ができる送月台があった場所に楼閣が建っています。
 百済時代にも望楼があったと推定されるここに、1919年に林川面にあった門楼を移しサビ楼と名づけました。
 この工事の時、鄭智遠という名前の刻まれた百済時代の金銅三尊仏立像が発見されたそうです。

 楼の二階には、詩を書いた額などがたくさんかかっていて、ハングル文字の氾濫の中ではなぜかほっとし、その達筆な漢字にしばらく見とれてしまいました。

 頂からすぐの、白馬江に面した絶壁の上に六画形の亭が美しく建っています。
 亭の名前は「百花亭」。

 サビ城落城に際して、新羅・唐連合軍の攻撃に、百済の宮女たちは、敵に辱めを受けるよりはと白馬江に身を投げ、そのチョゴリの舞う姿は花が散るようであったと言う伝説が残りました。
 その飛び降りた断崖を「落花岩」、そして、その上に建てられた亭が「百花亭」と名づけられたゆえんです。

落花岩の上に建つ百花亭

百花亭より白馬江を望む

落花岩から身を投げた女性の霊を慰める皐蘭寺
       
扶余八景「夜明け前の鐘音」皐蘭寺の鐘楼

                
  

 
 








    
願い事を書いた提灯が美しく並ぶ堂内

 そして高麗時代、落花岩から身を投げた女性の霊を慰めるために、その下には皐蘭寺が建てられました。
 寺の裏には薬水が沸いており、そしてその近くに自生する皐蘭草という珍しい草が自生していて、その名にちなんでつけられた名前です。
 原色の華麗な装飾の山寺で、お堂の裏には落花岩より身を投げる宮女の絵が、堂内には多くの信徒が願い事を書いた提灯がたくさん奉納されていました。

 皐蘭寺の下の船着場から、遊覧船に乗りました。
 白馬江は錦江の下流に当たり、川幅が広く、悠々と流れています。
 母なる河として、百済の文化の源となり、そしてその最後を見守った歴史の川です。

 見上げると、宮女の身を投げた落花岩がそそり立ち、新緑が山麓の皐蘭寺を包んでいます。

 百済滅亡直後、各地域から百済復興軍がおこり、鬼室福信を中心として倭に救援を要請し、唐・新羅連合軍と戦って倭と百済復興軍が大敗した白村江の戦いは、その3年後663年でした。

 白村江は、この河のさらに下流の河口でのことです。

 倭はこの白村江の大敗で朝鮮半島における影響力を完全に失い、大宰府の「水城」など防備を固くして、以後律令国家への道へと進んでいきました。
 この古代国家の形成を支えるため、さまざまな文化をもたらしたのは、このとき戦乱を逃れて日本に渡海した百済遺臣だったのです。