2004.5.23 By.ゆみ
2004.4.26-29
幻の百済と李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記
宝珠を抱く定林寺址出土の塑造仏片
第2日目(4月27日) 3.幻の百済−扶余博物館にて
白馬江を遊覧船で川下りして、クドレの船着場から、すぐの扶余の街中に出て昼食となりました。
韓国名物の参鶏湯(サムゲタン)です。
一羽丸ごと若鶏の中に、高麗人参やモチ米、なつめ、にんにくなどを詰め、長時間じっくり煮こんだ宮廷料理 で、薬膳としての効果も抜群の料理です。
白馬江の小雨交じりの川風が冷たく、すっかり体が冷えきっていましたので、この熱い参鶏湯が、心地よく体を暖めてくれました。
石造物展示の並ぶ国立扶余博物館入り口 |
中庭の石槽
扶余官北里出土・7世紀 |
昼食後は、国立扶余博物館の見学。
扶蘇山城の南側山麓、百済王朝の宮廷跡に建っています。
入り口までのつつじの咲くプロムナードには 統一新羅時代の亀趺や、高麗のころの石仏・石塔などが並んでいます。
ガイドさんはさっさと行ってしまうので、ついていくのが精一杯。
それでも造形の面白さに、一生懸命シャッターをきりました。
博物館は、入り口を入ってすぐの中庭を真ん中に展示室が一巡するつくりで、その中庭の中央には、百済時代の円形の大きな石槽が据えられていました。
高さ146cmのこの石槽には、蓮を植えて花を愛でたという伝説があり、王宮址にふさわしい遺品です。
展示室は、先史時代からスタート。
松菊里遺跡出土の青銅器時代の石包丁や銅剣などの展示品は、ちょうど日本列島の弥生時代の遺物を思わせます。
あれっと思ったのは、七支刀。天理市石上神宮の国宝のレプリカで、ここでは、百済の近肖古王が倭王に「下賜」した儀礼用の鉄剣として展示されているのでしょう。
さていよいよ、百済時代の展示室。
王宮址などから出土した生活用品(便器もあった!)などのコーナーを先に進むと、瑞山の磨崖三尊仏のレプリカが迎えてくれます。
私が今回最も期待していた仏教美術の部屋です。
暗い照明の中に百済の微笑みが浮かび、その前を見学の子どもたちが不思議そうに通って行きます。
瑞山の磨崖三尊仏は、真中の仏を中心に右側に菩薩立像、左側には半跏思惟像が配置され、
その温和な微笑は百済時代の美術文化の特徴を遺憾なくあらわしています。
観光ツアーではなかなか行くことのない山中の磨崖仏らしいですが、こんなところでレプリカで見ることができてうれしかったです。
百済昌王銘石造舎利龕
567年 |
金銅観世音菩薩立像
7世紀初百済時代 |
金銅三尊仏立像
扶蘇山出土・6世紀(図録より) |
百済金銅大香爐
1993年12月に市内から出土 |
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定林寺址出土の塑造仏片 |
百済の仏像の特徴は、やさしく温和な表情と洗練された造形性にあるといい、たしかに新羅の硬く重々しい感じとはちがいます。
古代日本の渡来仏には、そのいずれの特徴も見られますが、その後の日本の主流をなすのは、百済系のような気がします。
私が百済の仏像を見たいと思ったのは、どこかでそのやさしさの源流に触れたかったのかもしれません。
展示室には、まさに百済時代のやさしく温和ないくつかの仏像と、精巧な仏具が展示されています。
しかしそのほとんどは、近年の発掘による出土品で、しかも姿を留めているのは石造物か、腐食されがたい金銅製。それも大半は火災の損傷を受けたものでした。
もっと自由に優美さを表現できる木造や塑造の仏像は、残念ながらありません。
千五百年の時の流れ、とくに百済の滅亡や「壬辰倭乱」などの戦火によってその多くが失われてしまったのでしょう。
むしろ百済の多くの遺品は、東の果ての文化の終着点の日本に残され、そのやさしい作風も伝えられていったように感じます。
ほとんど顧みられることのない破片ばかり集めたケースの中に、 宝珠をいだく両掌だけ残された塑造片がありました。
「定林寺址出土の塑造仏片」とのこと。
見つめていると、等身大の優美な観音像が目に浮かんできます。
今は見ることのできないこの像のありし日の姿を想像しつつ、今回の旅は、幻の百済に思いをはせる旅であったと感じました。
参考HP:扶餘観光 瑞山市