2004.6.27 ESSEY By.T
PHOTO By.ゆみ


2004.4.26-29 

幻の百済李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記

王陵のともしび

第2日目(4月27日) 4.発掘された武寧王陵 (このページの文章はTが執筆しました)

宋山里古墳群と模型館のある史跡公園

新装成った宋山里古墳群模型館の入り口
解説看板より「宋山里古墳群」のマップ
 Fが武寧王陵 Gが模型館

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 昨年に引き続いての韓国訪問でしたから、さらにその歴史に思いを深めるところがありました。
 歴史を学ぶというのは、現代史を学ぶことなんです、と古代史の大家の吉田晶先生がおっしゃっておられたことを思い返しています。
 現在を見据えながら過去を見ることが常に問われるわけでしょう。

 今回は百済の故地を訪ねて考えてみたわけですが、朝鮮半島の地理的条件は、現代も変わることはないわけです。
 とりわけ百済の歴史を考えますと、朝鮮半島の今も変わらない現実を見られる思いになります。
 高句麗や新羅との戦いによって滅亡に追い込まれた国家が百済です。
 もっとも昨年訪問した加耶の地域は、百済の支配下にもあった歴史を持っていますし、かなり多面的な視野を持たないと朝鮮半島の歴史を理解するのは難しい。
 百済の場合ですが、国家と言い切っていいか悩まされる史実を見せてくれます。つまりこの王朝が支配領域をたびたび変えていてなお安定した国家形成ができたものかとふと考えるのです。
 倭国との関係強化を図ることが、国の立て直しにとっては必須のことだったことも見えてきます。

 今回のツアーに参加したのは、最も関心のある武寧王陵見学が含まれているからでした。
 武寧王陵は毎日のように日本人が訪問しているわけですし、ネット上でも多くの方々が書いておられます。
 ご承知のことでしょうが、墓誌銘のおかげで被葬者が特定できますので、歴史上の年代を探る上で定点になる重要な史跡です。

 百済の故地を探訪して、2日目の午後、バスはいよいよ公州に到着。
 宋山里古墳群模型館をたっぷり拝見したあと、外に出ました。
 雨上がりで気持ちがいい。坂を上っていくと眼前に、緑鮮やかなマウンドを見ることができるのです。
 私たち観光者には分かりやすいように、充分整備されていて、ありふれた小山にすぎないのですが、実は内心これが武寧王陵なのか、とちょっと感動していました。


 王陵と認識されなかったのは、韓国ではお墓にはよく後山のような施設が付くのでそうしたものと思われていたようです。
 つまり宋山里6号墳の関連施設と考えられていたようです。以前はもっとうっそうとした状態だったのでしょうか。

 発見のいきさつですが、この6号墳の壁画の剥落防止のための排水溝工事がきっかけになって発見されたとのこと、その偶然に感謝しましょう。
 1971年7月のことですが、私は当時関心をもっていなかったせいでしょうか、残念ながら記憶にありません。






宋山里古墳群から 
公山城王宮の周りの山々には山城が廻らされていたという

6号墳と5号墳の真ん中が武寧王と王妃の合葬陵
今はマウンドを誇張して復原してある
発掘前の武寧王陵は5・6号墳に付随する後山と思われていた

6号墳の石室入り口

武寧王陵石室の入り口



武寧王陵石室の復原模型

アーチの組み方のジオラマ

 直接、玄室を拝見することはできませんが、前に述べましたように、模型館で復元された状態を見ることができます。
 この模型館には、6号墳の玄室も復元展示されていて、レンガの模様の違いなどを比較しながら間近に見ることができますので、堪能できます。
 墓誌の両面も展示されていますが、この墓誌ならびに裏面の買地券が残されていたことで、「斯麻王(しまおう)」、すなわち百済第二十五代武寧王の墓とわかったわけです。

 ところで、あまり話題にならない6号墳の被葬者ですが、早乙女先生は、もし熊津時代から造営が始まっていたとするなら、武寧王のあとの聖王(「仏教公伝」で名高い聖明王です)がふさわしいと述べておられます。
 ただし扶餘にあるのだとすれば聖王の墓は陵山里古墳群の中下塚とも付記されています。(『朝鮮半島の考古学』を参照)
 この時代は、多難な歴史を歩んだ百済としては比較的安定した時期だったのかもしれません。

 百済も高句麗とは拮抗した政治的軍事的な体制があったのでしょうが、広開土王時代以降の高句麗は、強大だったわけです。
 しかし、軍事力だけでは国は維持できないことも事実なんですよね。
 あれだけ強大な軍事力で隋・唐と戦い抜いた高句麗も、七世紀後半には滅びてしまいます。

 さて百済なのですが、475年高句麗軍の前に敗北し、蓋鹵王は殺害されます。
 これによって実質的には滅亡したといえるのですが、文周王が即位し、倭が百済を支援する形となります。
 このときの倭王は雄略(=倭王武)です。百済は王都を熊津に移さざるを得なくなったのです。
 そこが私たちが訪問した公州の地というわけです。実は百済国内はさらに混迷していて、477年文周王は兵官佐平の解仇に実権を奪われ殺害されてしまいます。

 478年(雄略22年にあたる年)、倭王武は宋に使者を派遣します。
 有名な「昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。云々」の上表分を副えたものですが、高句麗を共通の敵と考えられますので、倭としては百済救援の要請を含んだ使者であったと思われます。

 『日本書紀』雄略紀
廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。是歳、百済調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以撃高麗。
(百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。・・・・)

 こうして479年東城王(末多王)が即位しますが、この即位にも倭の支援があったことがわかります。

 鈴木英夫先生によると、武の時代には、こうした朝鮮半島での流動化、とりわけ高句麗の脅威に対応して倭では「高句麗征討計画」を立てたのだそうです。
 まだ高句麗軍は朝鮮半島西海岸部の制海権を握っていたらしく、王を護送するために倭は筑紫の首長たちが朝鮮半島西海岸で高句麗軍と交戦したと、解釈されます。
 生々しい現実が見えてきます。(鈴木英夫「倭王武上表文の基礎的考察」を参照)



出土した王妃のかんざしを
モチーフにした栞を、
おみやげに買いました
 さて、武寧王に戻りましょう。
 『日本書紀』武烈四年条(502年)には、先に名前が出ていました末多王の暴虐が記され、武寧王即位が記されています。
 「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
このあとですが、
 [百済新撰に云はく、末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、共に除つ。武寧王立つ。諱は斯麻王といふ。是昆支王子の子なり。即ち末多王が異母兄なり。昆支、倭に向づ。時に筑紫嶋に至りて、斯麻王を生む。嶋より還し送りて、京に至らずして、嶋に産る。故因りて名く。今各羅の海中に主嶋(ニリムセマ)有り。王の産れし嶋なり。故、百済人、号けて、主嶋とすといふ。今案ふるに、嶋王は是蓋鹵王の子なり。末多王は、是昆支王の子なり。此れを異母兄と曰ふは、未だ詳ならず。]

 斯麻王についての記事は、雄略紀五年(461年)六月条にもあります。誕生を記すのですが、ここでは、「斯麻王」ではなく「嶋君(セマキシ)」とあります
 「六月の丙戌の朔に、孕める婦、果たして加須利君の言の如く、筑紫の各羅嶋にして児を生めり。仍りて此の児を名けて嶋君と曰ふ。是に、軍君、即ち一の船を以て、嶋君を国に送る。是を武寧王とす。百済人、此の嶋を呼びて主嶋と曰ふ。」

 この主嶋(ニリムセマ)のニリムは古代朝鮮語で国主のことだそうです。
 斯麻王のネーミングについて海中の主嶋で生まれたので、「斯麻」と名づけられたと言うわけです。
 つまり武寧王は、倭で生まれたことになります。
 この「主嶋」ですが、佐賀県玄海海中公園の加唐島を当てるのが、わが国では有力な説らしいですが、となると、なんとなく親近感が増してきます。

 また、武寧王陵の木棺の材質が、日本にしかないコウヤマキ製だとする分析があるのですが、これにはどのようなわけがあるのでしょう。
 謎を秘めて、武寧王は王妃とともに葬られています。(By.T)


武寧王の冠飾りのモチーフが、公州の街を飾っていました