2004.7.10 By.ゆみ
2004.4.26-29
幻の百済と李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記
仁政殿玉座
第3日目(4月28日) 4.ソウルの王宮=昌徳宮を巡る
錦川橋欄干 邪気をはらうナティが天をにらむ昌徳宮(チャンドックン)は朝鮮時代の五百年間、王が最も長く住んだ王宮です。
ガイドさんの案内で、敦化門から右折、石橋を渡って、いよいよ宮内に入りました。
橋の名は錦川橋(クンチョンギョ)。風水学に基づいて、王宮の入り口には、北から南に流れる明堂水が配置され、大臣達はこの小川に架けられた橋を渡って邪心を振り落とし、宮内に入ったとされています。
橋の手すりにはヘテやナティという動物の模様が彫られています。
かなり摩滅していますが、火災と政変に耐えて、六百年前の築造当時の面影を伝える石造物です。
橋を渡ると進善門、そして左手にまた大きな門があります。
正殿仁政殿入り口の仁政門です。
真ん中の一番大きい門は王だけが出入りできる門、東側は文官、西は武官の通る門だそうです。
仁政門へ ガイドさんのチョゴリが優雅さて、仁政殿(インジョンジョン)。
即位式、王と家来達との朝礼や、外国からの使臣と謁見など、公式的な国家行事が行われる正殿の役割を果たす建物ですので、荘重で華麗なのは当然なのですが、中国の紫禁城などに比べると、とても繊細で清楚な趣でした。
内部は、王の象徴の鳳凰が舞う天井など伝統の中にも、シャンデリア風の電灯、洋風なカーテンなど実用的で近代的なしつらいで、使われていた百年前のそのときのままとも思えます。
仁政殿
仁政殿の右となり、青い瓦の建物が宣政殿。
宣政殿は王の公式の執務所で、国事を議論したり、学者や官僚が儒教の経典や歴史を勉強したり、儒生たちを集めて試験をしたり、宴を行った重要な建物なのです。
ソウル市内の王宮でもここだけに使われている青瓦は、その重要性のあかしだそうです。
その奥が中宮で、王の日常的な御座所の熙政堂。
その背後に、王と王妃の寝殿で、家族も生活した大造殿があります。
この大造殿の屋根には棟瓦がありません。
韓国ではこの瓦を「龍棟」と呼び、国王は龍に例えられたので国王の寝殿であるこの大造殿の瓦を省いたとのことです。
宣政殿(王の執務所) |
大造殿(王と王妃の寝殿) |
さらにその背後には、後苑、またの名を秘苑(ピウォン)として親しまれている庭園が続いています。
朝鮮第3代王、太宗5年(1405年)昌徳宮の創建時に宮殿の庭園として造られ、自然をそのまま生かした韓国の伝統的なその造りは、王や王妃の憩いの場所でした。
この秘苑へは、文字通りいくつかの門を通り、さらに緑の杜を抜けていくと、芙蓉池とその後の高台に宙合楼がそびえています。
宙合楼は、国の将来を担う人材を育てるために学問を研究し、本を出版していた2階建ての楼閣です。下の階は宮中図書館の役割を果たし、上の階は読書や議論、瞑想と思索の場としても利用されたそうです。
また、広い敷地内には、宮殿風の楼閣ではなく、彩色を施さない瀟洒で伝統的で朝鮮の民家建築もあります。
演慶堂は、朝鮮第23代王、純祖28年(1828)に当時の士大夫の家を真似て作られた民家形式の建物。
中は、男性が生活をする舎廊棟、母屋、本を保管していた善香斎などがあり、「ふつうの生活」にあこがれた王様の心情が伝わってきました。
秘苑へは 文字通りいくつかの門を通る
左:芙蓉池と宙合楼(後の2階建ての楼閣で図書館だった) 右:狆の彫刻がかわいい
左:不老門(王の長寿を願って建てられた特別な石の門) 右:苑内には宮殿風の楼閣ではなく、別荘のような民家風の建物もある
演慶堂:士大夫(朝鮮時代の上流階級)の家を真似て作られた民家形式の建物
最後は、秘苑をでて中宮へ戻り、楽善斎を見学しました。
楽善斎は朝鮮第24代王、憲宗13年(1847年)に側室だった金氏が住むところとして建てられ、英王とその后である李方子様と徳恵翁主が、日本から帰国後過ごした場所だったそうです。
築地の装飾や屋根の連なり、オンドルの煙突などの巧みなデザインに洗練された近代朝鮮の文化を感じました。
楽善斎:壁の装飾や屋根の連なり、オンドルの煙突などの巧みなデザインに洗練された近代朝鮮の文化を感じます