2004.7.29 By.ゆみ

-真夏の大地に 雨を祈る- 館林市木戸町のささら舞を追って 付録

亀田鵬齋について


1. 鵬斎(ぼうさい)の生い立ちと、書・学問

 宝暦2年(1752)に上野国上五箇村で生まれた亀田鵬斎は3歳の時、一家で江戸に出ました。

 鵬斎の生まれた家の跡は、明治43年(1910)大洪水の後、堤防が北に移動しましたので、現在は河川敷の中になってしまいました。
 
 鵬斎は、6才で書を三井親和に、漢学を飯塚肥山について習い、14才で井上金峨のもとで儒学を学びましたが、その上達ぶりはすばらしかったそうです。


2. 異学の禁と鵬斎

 鵬斎は23才の時、神田に塾を開くと旗本など多く集まりましたが、幕府による「寛政異学の禁」によって、鵬斎たちの学問は禁止され、大勢いた塾生も急に減ってしまいました。
 
 しかし鵬斎は自分の学問を守り通し、異学の五鬼とも言われ、書・絵・詩ともに優れ、当時の文人番付では、東の大関(現在の横綱)に据えられました。


3. 良寛との交流

 また越後や佐渡の旅では、良寛と親しく交流しましたので、二人の逸話も多く、江戸川柳では「鵬斎は越後帰りで字がくねり」とうたわれました。


4. 赤穂義士の碑
 
 その後、鵬斎は赤穂浪士の吉良邸討ち入りに感動し、「赤穂四十七義士の碑」を泉岳寺に建てましたが、幕府はこれを許さず、般若経の供養塔にしてしまい、今泉岳寺に建っている鵬斎の碑は、残っていた拓本をもとに、明治になってから有志によって再建されたものです。

鵬斎の書画、正面の拓本は元の「赤穂四十七義士の碑」
文章=亀田鵬斎研究会の資料より引用  写真=鵬斎肖像画(亀田鵬斎記念館蔵 2004.7.25撮影)