2005.3.5 By.ゆみ

フォトアルバム 早春の本佐倉城跡-2005 U

本佐倉城の

T郭とU郭の間の虎口、T郭へは右へ曲がります
主郭部へ

本佐倉城は近世の佐倉城跡から東に3kmの位置にあり、この城には下総守護千葉氏が文明年間(1469〜1486)に築城、天正18年(1590)に豊臣秀吉により滅ぼされるまで千葉氏9代が居城しました。
また土井利勝により近世佐倉が成立するまで、徳川一門などが本佐倉に入封し陣屋を構えていました。

城跡の規模は東西約700m、南北約800m、面積約35万u。
現在でも大規模な空堀・土塁、櫓台に守られた曲輪群などが明瞭に残っています。
城の構成は、「城山」(T郭)、「奥ノ山」(U郭)、「セッテイ山」などの内郭群=城主空間と、「荒上」、「向根古谷」などの外郭群=広大な面積を持つ郭で屋敷群等から構成され、これらの郭には馬出し、枡形(ますがた)等の出入り口、土塁には出枡、隅枡、折れが備えられています。

V郭から、狭く急な虎口を上がり、現在酒々井町が発掘調査中のT郭(城山)に登りました。
ちょうど酒々井町教育委員会の担当の方もいらして、「建物跡のピットは多数出ているが、遺物はあまり出ていない。佐倉城(戦国末期は「鹿島城」)に移る時、全て移動したのではないか」など簡単なお話をお聞きしました。
準備された調査現場の青シートの上には雪が積もり、見学会がもう開かれないことが残念でしたが、調査はずっと何十年も続くわけですから、次のチャンスに期待しましょう。



T郭の入り口の坂虎口 

T郭城山の頂へ、雪で足元が滑ります

本丸に当たる詰めの城、T郭の調査現場

T郭の西側の深い堀の向こうはU郭(奥ノ山) 眼下はV郭

T郭からV郭を見下ろすと・・

U郭(奥ノ山)は一面の雪、ここには佐倉妙見宮があったとされています
『千学集抜粋』で 大永3年(1523)と元亀2年(1571)に
千葉家当主が元服式を行ったとあるのはここのことでしょうか
  
V郭の北側には諏訪社の森があり、その東側はY郭(東光寺ビョウ)へ通じる厳重な虎口の断崖になっています