2005.3.5 By.ゆみ
フォトアルバム 早春の本佐倉城跡-2005 V
Y郭(東光寺ビョウ)の発掘調査現場
W郭(無名郭)から諏訪社の下の虎口を通ると、城の北側、印旛沼に面したY郭(東光寺ビョウ)に出ます。
ここは、印旛郡市文化財センターによって発掘調査中で、今回の見学会でその成果が披露される予定でしたが、前日の雪と雨でトレンチが水没、足元も泥んこで中止を余儀なくされたとのことです。
幸い、見学会中止の周知のため詰めていたセンターと佐倉市の担当者から資料をいただきました。
その資料によると、東西の物見台の間の湾曲した低地に、地山を切り出して盛土し、ひな壇状の造成を行い城の付属施設として使っていたとのこと。
造成は第1期から3期の3回行われ、曲輪・広い中段平場・下段平場と版築で造成し、中段の造成では1期と2期の2回で最大3mの盛り土をしています。
中段平場には、根古屋に通じるV郭とZ郭(セッテイ山)の間の虎口への道路状遺構が2条確認されています。
そのほか溝状遺構・竪堀・土坑群が、青磁・白磁、瀬戸・美濃・常滑産陶磁器やかわらけ・内耳鍋などの遺物を伴って検出されていたそうです。
どういう役割りの郭であったか、資料には明記してありませんでしたが、私は浜宿と並ぶ、またはそれ以前の水運に係わる物流センターのような場所だったのではないかと思いました。
W郭(無名郭)から諏訪社の下の虎口 |
調査中の青シートの壁の間を抜けると 印旛沼だった田んぼが見えた |
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東山の物見台 |
印旛沼から吹き付けた雪が樹木の幹に残っていた |
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ひな檀状に造成されたY郭 |
湾曲した下段平場は当時湿地帯だったという |
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下段平場東側の盛土造成の様子 |
下にもう一段あった? |
浜宿への道
本佐倉城の周囲には、南に惣構「本佐倉宿」、東に「酒々井宿」、西に「鹿島宿」、北に「浜宿湊」が城下を形成していました。
屋敷名称などの伝承地名や、寺院20ヶ寺、神社17社が確認でき、城下の範囲を想定することができます。
調査中のY郭(東光寺ビョウ)から、辺田道を歩いて船着場があったという浜宿まで行ってみました。
途中道の分岐に「濱宿渡船○ヘテ六合村ニ至ル」へと刻まれた昭和初期とみられる道標が立っているので、その方向へ進むと、京成電車のガード手前の民家の前に庚申塔やお地蔵様が並んでいます。
右のお地蔵様にはお宮参りの際の被布、左の小さなお地蔵様には中学生用の制服のシャツが着せてありました。
右のお地蔵様は女性、左の小さなお地蔵様は男子だと聞いたことがあるけれど、本当かどうかは知りません。
ここは、勝胤寺の総門の跡で、佐倉惣五郎の伝承『地蔵堂通夜物語』の地蔵堂はこのあたりにあったと思われ、また「延名水」という清水もわいているともいわれています。
その道を進んで、ガードをくぐると、勝胤寺の参道へと導かれます。
この寺院は千葉勝胤が天文元年(1532)に建立したと伝えられ、寺宝「千葉石」の伝承や勝胤が愛賞したという「千葉水」もほとばしり出ていました。
浜宿はこの勝胤寺の後の印旛沼に臨む地で、昭和のころまで印旛沼航路の船が発着していたそうで、かつての賑わいがしのばれます。
印旛沼を渡る冷たい北風をよけて旧家の建ち並ぶ路地へと入ると、民家の庭にも、細い排水路にも梅が咲きほころび、春の到来を告げていました。
冷たい風の吹きつける印旛沼跡の干拓地から、東山の物見台を望む |
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「濱宿渡船○ヘテ六合村ニ至ル」へと刻まれた道標 |
勝胤寺の総門の跡、地蔵堂もあったらしい |
勝胤が愛賞したという伝承の「千葉水」 |
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浜宿の旧家の屋敷 |