2005.2.25
By.ゆみ
フォトアルバム 早春の本佐倉城跡-2006 W
Y郭東光寺ビョウの第2次発掘調査現場説明会が開かれる
東光寺ビョウの発掘での出土品
瀬戸・美濃の天目茶碗などほか、常滑産陶磁器、かわらけ、輸入品の青磁・白磁片も展示されていました
2005年3月5日に予定されていた城の北側、印旛沼に面したY郭(東光寺ビョウ)の発掘調査の現地説明会は、前日の積雪のため、中止になりましたが、翌2006年2月25日の第2次(平成17年度)調査の説明会は、前日の雨も上がり、まずまずの天気の中、行われ、八千代市郷土歴史研究会の仲間と私も見学に行ってみました。
第2次調査では、広い中段平場が対象で、根古屋に通じるV郭とZ郭(セッテイ山)の間の南奥虎口から下る複数の道路状遺構と、中段平場東よりの市境で中世の竪堀とそれに沿った道が見つかっています。
南奥虎口からのびる道路の遺構は、AとBの2本あり、Aはさらに3本に分かれ、うち西よりの1本は、覆土中に宝永(1707年降灰)の火山灰層があることから近世の道と、時代によって位置がかわっていることが確認されました。
この南奥虎口の出口斜面には、木戸の柱穴跡と柵列が見つかっていて、内郭への厳重な防御がしのばれます。
また竪堀の跡は、平場造成で厚く盛土した中から見つかりましたが、この堀のラインは現在の佐倉市と酒々井町との境でもあり、後世まで、何らかの記憶に残る存在であったのでしょうか。
昨年美しかった梅の花も、まだ咲かずじまい。
今年度の調査は1月から行われたそうですが、例年になく寒く、土も凍っていてたいへんだったそうです。
東光寺ビョウの見学を終え、 青シートに養生された東山虎口を抜けて、酒々井町の調査地区である城の内郭へと向かいました。
現在、T郭(城山)への道は、史跡公園化へ向けて整備工事中で登れず、U郭(奥ノ山)と諏訪神社などを探索し、帰路は城外の将門山の史跡を探訪しながら、京成佐倉駅まで歩きました。
佐倉市が調査しているY郭(東光寺ビョウ)の発掘現場 左の青シートは酒々井町が調査中の東山虎口、ここから背後の台地上が内郭へ入れる |
中段平場上には、
近世を含め3条の道路状遺構が見つかった
覆土中に宝永の火山灰層が見られ、
近世の道の遺構と推定された
南奥虎口から延びる2条の道路状遺構
その斜面の上には、木戸の柱穴跡と柵列が見つかった
中段平場東側の盛土造成土中から
竪堀とそれに沿った道が検出された
竪堀を示すトレンチの断面、かなり深い
将門と佐倉惣五郎伝説の将門山探訪
東光寺ビョウのセッテイ山の山裾に祀られた双体道祖神
本佐倉城に隣接した西側の台地には、将門山という平将門と佐倉惣五郎にまつわる伝承地があります。
十年前、八千代市郷土歴史研究会の仲間と歩いたところですが、最近の様子も知りたく、現地見学会の帰路、再度訪ねてみました。
道しるべの地点まで戻り、外郭の荒上地区の台地の下の堀底道を南へ登っていくと、右手台地上に杉並木の参道が見えてきます。
朱塗りで屋根付の鳥居をくぐった参道の奥に平良将の創建と伝えられ、千葉氏の尊崇を受けた八幡神社、そしてその100m奥には大佐倉の産土神麻賀多神社もあります。
参道の長さは約200m、城の最盛期には、流鏑馬などができたであろうとも思える長い直線の参道ですが、今は、ひっそりと鎮まっていました。
鳥居の右手を進むと、道の角にすぐにまた小さな神社があります。「将門口の宮神社」です。
十年前、この神社を訪ねた時は、大正8年の社殿消失のままの姿で、石の鳥居だけがめだつ神社でしたが、平成13年大佐倉の氏子の皆さんで社殿を再建、その傍らには神社の由来や再建の趣旨を記した石碑も建てられていました。
千葉氏が妙見信仰とともに祖先の平将門を祀る寺社や塚などは、北総各地で見られ、将門が拠った館跡という伝承地も少なくなく、この神社もそのひとつですが、この神社の歴史的な意義は、中世からの将門信仰のみではなく、近世の佐倉城主堀田家により義民佐倉惣五郎の怨霊鎮魂の明神社としてまつられたという経緯と因縁でしょう。
鳥居には「奉寄進将門山明神 承応三年甲午十一月吉日」「佐倉之城主従五位下 堀田上野介紀朝臣正信」と彫り込まれています。
時の藩主堀田正信による過酷な重税に、惣五郎が老中へ直訴し刑死させられた後、臨月の正信の奥方が逝去するなど惣五郎の怨霊が出没して家中を悩ませたという物語が、事件の百年後に流布した『地蔵堂通夜物語』に書かれていますが、鳥居に記された承応三年(1654)はまさにこの事件の翌年のこと。将門の霊に重ねて惣五郎の怨霊鎮魂のため、正信は鳥居を寄進したものの、惣五郎夫婦の怨念についに乱心、改易遠流となります。
その一世紀後、ようやく佐倉に返り咲いた藩主堀田正亮の時、惣五郎百回忌を期してその霊が再び祟らぬよう、口の宮明神を造営して祭事を行いました。
そしてそれをきっかけに、ひそかに惣五郎を慕う人々により伝えられてきた義民伝は、以後、芝居や出版でブームとなり、幕末のころの口の宮明神は、目を驚かせるほど立派だったといいます。
堀田正亮が手植えしたというマテバシイの大木は今は枯れ、その二代目の若樹を見ながら、さらに道なりに曲がって進むと、奥の宮とされる「桔梗塚」が畑の中に見えてきました。
『古今佐倉真佐子』にも、「この原なか大塚あり。芝付けてある。桔梗の前の墓なり。この原に桔梗一面にある。一本も花咲くことなし」と記されている塚です。
将門の愛妾「桔梗の前」の伝承は北総各地にあり、いずれも敵将秀郷に通じたことで将門が討たれたとされ、それゆえに彼女の墓の桔梗は花が咲かないと語られています。
畑の中の浮島のような塚に、「伝桔梗塚」そして「花もなくしげれる草の桔梗こそ いつの時世に花の咲くらん」と刻まれた石碑が趣深くたたずんでいます。
石碑の建立は昭和56年、これからも将門伝説を語り継いでいこうとするこの土地の方々の熱意が伝わる風景でした。
八幡社の鳥居に続く長い参道を行くと・・ |
かつて千葉氏の尊崇を受けたという八幡神社が ひっそりと建つ |
将門と佐倉惣五郎を鎮魂する 将門口の宮神社 |
堀田正亮が手植えしたというマテバシイは 二代目の若樹になっていた |
「伝桔梗塚 花もなくしげれる草の桔梗こそ いつの時世に花の咲くらん」 |