2008.3.15
 By.ゆみ

フォトアルバム 早春の本佐倉城跡-2008 X

眠りから覚めた本佐倉城跡


佐倉市側の東光寺ビョウ(Y郭)の見学会集合場所。
西の物見台が岬状に張り出している。


 2008年2月23日(土)、今年も本佐倉城の発掘調査に伴う現地説明会が、佐倉市文化課と酒々井町教育委員会の主催で開かれました。

 佐倉市側の東光寺ビョウに集合、この日は午後から春一番の強い風が吹いています。

 印旛沼に面した東光寺ビョウ(Y郭)は北側に突出する二つの物見台によって守られた広大な空間で、佐倉市と酒々井町による発掘調査が行われています。
 (その成果などは前ページをご覧ください)

 この日は埋め戻された東光寺ビョウ調査区で、発掘調査で明らかになった遺構についての説明を聞きながら、東山虎口を経て城の内郭へと入りました。



東山虎口からW郭調査区へ
 厳重な構造の東山虎口のそそり立つ壁の間を抜けると、テラス状に造成されたW郭の下に出ます。
 この無名のW郭は、2007年度の調査で、郭内と通路の間の柵列と門跡が検出されていました。
 さらに調査が進むと、このW郭の性格なども判明してくるのだそうです。


東光寺ビョウ=酒々井町側の東の物見台と東山虎口をのぞむ





調査中の東山虎口を通り抜け、W郭の下へ出ます


 見上げるとW郭の切岸の上に、千葉氏の月星の紋章入り盾が並べてあり、
 見学者を迎えてくれました。



  発掘されたW郭の柵列跡。
  この道を下っていくと東山馬場、
  その先は印旛沼の水辺に至ります。


  W郭の柵列(黄色のテープ)と門の跡(赤のテープ)
  門は城山・奥ノ山方向へ通路を遮断する門と
  またW郭への入り口となる門の2方向が推定される。
  中世は斜面の裾がもっと広がっていて
  道は現在より北側(右手方向)にずれていたらしい。






  奥ノ山(U郭)と城山(T郭)の大堀切の間を抜けると、
  三叉路に出ました。
  左手の道は城山。右手は奥ノ山に通じます。
  以前は鬱蒼たる樹林と藪こぎに近い掘り底道でしたが、
  整備が進み、見通しもよく歩きやすくなってきました。

発掘調査で明らかになった城山郭の御殿の姿

 2005年の現地説明会は、前日の積雪のため、急きょ中止され、期待していた主郭城山の調査現場も青シートの下。
 心待ちにしていた見学の機会が今年は実現し、堆積した表土の下から現れた多くの建物跡や遺構を興味深く見学しました。
 城山郭は、本佐倉城の10ある郭の中でも最も奥まった所の厳重に防御された郭で、2003年から発掘調査が進められてきました。
 これまでの調査で、土塁に囲まれた主郭の中に @主殿(東西28.5mの長い建物・接客儀礼用)、A会所(東西12mの建物・身分差を排した遊び用)、B庭園(会所から眺める園池と築山)、C木戸、D櫓(郭の隅の物見用)、Eその他の建物4棟(2007年度の調査で判明・用途は配膳準備など?)の遺構が明らかになっています。
 戦さの際の詰めの城というより、恵まれた眺望の中で、月を愛でたり、連歌の会や茶の湯や酒宴を楽しんだ城主や武将たちの生活が彷彿とされる遺構でした。

 ただ今回も天候には恵まれず、春の嵐の強風に加え、城山郭での説明の最中に雷や急な雨! 大降りにならないうちに見学会は終了してしまいました。


発掘で明らかになった城山郭の全貌
(受付にあった説明パネル、クリックすると大きな画像がアップします)





  厳重な城山虎口の門の跡
  ここから塀沿いにジグザグに折れて主殿へと入ります


  手前は会所や主殿、城山虎口から曲がらずに直進すると・・
  この先は城山郭とU郭(奥ノ山郭)の間の大堀切へ
  そこには木橋が架かっていたかも・・・。


 会所から渡り廊下で続く建物跡 ↑ →
 意外に生活の遺物は少なく、佐倉城への移転に際して
 一切合財持って行った可能性も考えられるとのこと。






会所から眺めた園池と築山のある庭園の遺構 


天候の悪化に、奥ノ山郭へは行かず早々に引き揚げました

国史跡として調査と整備が徐々に進む本佐倉城。これからの調査成果も楽しみです。