2008.7.5 By.ゆみ


第4回さわらび考古学教室 北総の古墳探訪 VOL.V

印旛沼周辺の終末期古墳を知る」=大塚初重先生と行く平戸台8号墳岩屋古墳見学会=

V

☆岩屋古墳の最新情報

 6月18日午後からは、「房総のむら 風土記の丘資料館」で、
トピックス展「岩屋古墳と竜角寺古墳群」を永塚俊司研究員のご案内で見学しました。

 竜角寺古墳群は栄町の調査で114基の古墳からなり、その中でも105号墳の岩屋古墳は一辺78m、墳丘は3段築成で高さ13.2m、幅3mの周溝と周堤が巡る大方墳です。

 南面には2基の横穴式石室が10m間隔で並び、西側石室は奥行4.23m、奥壁幅1.68m、高さ2.14mを測る。東側の石室は西側よりやや大きい。(現在は崩落している)
 石材は地元産の貝の化石を多量に含んだ凝灰質砂岩です。
 この記録は、昭和45年に行われた大塚先生率いる明治大学の測量結果で、石室の実測図などは今も各報告に引用されています。

 展示では、特に、近世以前の岩屋古墳についての認識の考証、近代の竜角寺古墳群の調査と遺跡保護の歴史など、古墳群をとりまくトピックス、また平成19年度実施された岩屋古墳の測量結果で判明した石室手前の舌状張出地形のよくわかる図など、話題に富んだトピックス展でした。

 展示品では、前方後円墳の浅間山古墳や、円墳の101号墳から出土遺物の展示が目を引きました。


トピックス展「岩屋古墳と竜角寺古墳群」を永塚さんの案内で見学

直刀などの遺物をご覧になる大塚先生(右後姿)

円墳の101号墳から出土した埴輪・須恵器など

前方後円墳の浅間山古墳からの出土遺物



資料館集会室で1時間の講演をされた大塚先生
 福嶋昌彦氏 撮影 
☆大塚先生のご講演「竜角寺古墳群と岩屋古墳の調査」から

 午後2時から、休憩を懇談に用意してくださった集会室で、大塚先生のご好意で熱のこもった講演をお聞きすることができました。

 「竜角寺古墳群について従来112基とか113基とか言われてきたけれど、最近になって栄町の調査で114番目の古墳が見つかって114基あるということがわかった。
 北総地帯の谷の入った樹枝状の幅の狭い台地の上を利用して古墳が造られているところです。

 私が初めて竜角寺古墳に来たのは、戦後間もない昭和24、5年ころ、後藤守一先生に連れられて、松崎だったか安食からだったか駅を降りてテクテク歩いてきました。
 そのころの竜角寺古墳群は下草刈りが非常によく行われていて、きれいな林のなかに何十という墳丘が点々とある。
 本当に見ていて惚れました。「これが有名な竜角寺古墳群か!」というくらい見事に残っていました。

 それが、千葉県もご多分にもれず開発等の行為が入って、京成不動産がその辺の山を買い占める、そしてその後千葉県が、方針が変わって買い戻すということがあって、10年近く人の手が全く入らない林になっていました。
 昭和45年すぎでしょうか、千葉県教育委員会が岩屋古墳の測量をしてほしい、開いている石室も実測してほしいということで、学生さん七、八人を応援に頼んで安食の旅館に泊まって測量をしました。
 ところが、林に入れないのですね。ブッシュがすごくて足が1mぐらい先へ行っても上半身が入っていけない。枝やクモの巣や蔦でものすごかった。

 それを県がその後、竜角寺古墳群として見られるようにしたわけです。
 その結果、甘粕健さんによれば、全部で13グループ位に分かれていると。つまり谷と谷の間の13古墳群を残した13のグループの集団が背景に考えられると『私たちの考古学』に書いています。

 ある古墳群とその古墳群を残した集団との歴史的な関係論を考古学的に詰めたいのだが、考古学的な実証できる史料は極めて少ない。
 集落と古墳群の関係論の研究はまだまだという中で、いったい竜角寺古墳群114基の中で最古はいつごろかというと、今のところは6世紀代以降といわれています。
 むしろ4世紀代後半から5世紀〜6世紀代を通じてというと、この印旛沼の対岸、私が住んでいる成田ニュータウンの公津原古墳群130基余、その7割が発掘調査されて、方墳が非常に多く、さらに前期古墳として4世紀後半ぐらいから公津原古墳群形成が始まる。
 こちらの竜角寺古墳群は114基あるが、スタートが5世紀になるかどうかは、一部のものしか掘っていないからわからない。
 公津原古墳群では円墳に見えたが掘ってみたら方墳だったという古墳が意外に多い。
 将来、竜角寺古墳群に学術調査が入った際にも、今は円墳状に見えていても、実は、方墳であったということもあるでしょうから。

 竜角寺古墳群は、方墳では岩屋古墳、みそ岩屋古墳が、そして前方後円墳では、白井久美子さんが調査した最大の「浅間山古墳」があり、竜角寺古墳群の外ですが、近くには上福田13号墳があります。

 東側のよく見えなかった岩屋古墳は、今回、栄町町長がきれいにしようといって、雑木を切って、今は見えるようになり、様変わりしています。
 栄町の町長さんは、そのおじいさんが元安食町の町長だった時代に「岩屋古墳」を国指定史跡に申請をした、「おれのじい様が岩屋古墳を国史跡にしたのだから、おれも眼の黒いうちに国史跡にする」と一命発起して、みそ岩屋古墳から浅間山古墳も未指定だった竜角寺古墳群すべて、今年の夏ごろに国史跡に申請します。
 来年か再来年には、全部114基が国の史跡指定になるでしょう。
 要するに、首長が代われば、首長の姿勢次第で行政が変わる、為しがたいこともできるという事例です。」


 ここで、岩屋古墳について先生がされた測量結果についてと、最新の測量結果、今回の展示の内容に触れて、思い出話を含めながら詳しい説明がありました。

 続いて、お話は竜角寺古墳群成立をめぐる核心部分に入っていきます。

 「さて白鳳仏のある竜角寺の建立はいつかというのが問題になって、早稲田大学の滝口宏先生、後藤守一先生など諸先輩の先生方は、岩屋古墳を7世紀代後半、650〜700年の間としていました。

 今回、周りの木を伐採し、業者に器械で測量してもらった25pコンタの新しい測量図では、東の方、石室が開いている前庭部をみると、なんと等高線が舌状にでっぱっています。
 これをなんと見るか、埋葬に際しての墓前祭が執行される、遺骸が運びあげられる、石室構築の石の材料が30mの台地に上に運びあげられる導入の場と考えられなくもない、今後究明の重要なポイントになると思います。これは後で現地でご覧になるといいです。」


 大塚先生のお話は、いよいよ佳境に入り、この後40分ほど、岩屋古墳と浅間山古墳、そして公津原古墳群をめぐる考古学最前線の到達点と問題点について語られました。

 それは、1994年以降の千葉県の調査結果から浅間山古墳が竜角寺古墳群の中の前方後円墳として最大で最終段階の古墳であり、またその年代は7世紀初めごろとされること、岩屋古墳は石室構造からその後の7世紀中ごろと考えられること。
 浅間山古墳の石室石材が筑波石で、岩屋古墳は地元産の貝化石で構築されているという産地の違いも中央、近隣勢力との関係を示唆していること。
 すでに墳丘のほとんどが調査されている公津原古墳群が5〜6世紀に位置づけられることから、年代差のある竜角寺古墳群との勢力の交代がみてとれ、そのことが川尻秋生氏の埴生郡大生部直氏の研究という文献史学からも解明されつつあることなど、まさに大塚史学の醍醐味というべき熱い講義に、聞き惚れた1時間でした。