2008.7.5 By.ゆみ

第4回さわらび考古学教室 北総の古墳探訪 VOL.V

印旛沼周辺の終末期古墳を知る」=大塚初重先生と行く平戸台8号墳岩屋古墳見学会=

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☆姿を表した平戸台8号墳の主体部

 心配していた天候も梅雨時にもかかわらず、6月18日のこの日はすばらしい晴天!
 勝田台に集合、車に分乗し、15分ほどで平戸台に着、現地直行組を合流。大塚先生を含め21名が発掘現場に入りました。


 5月から始まった八千代市教育委員会の調査は、現在石棺の一部が姿をあらわし、その周りの発掘調査のお忙しい中、担当の常松さんが説明してくださいました。

 「2年前に見ていただいた時は、ここは山林だったのですが、転売されて地主さんが資材置き場にするということで、学術調査ではなく緊急調査です。

 簡易な測量図を見ていただくと、8号墳は、外側1辺21mほどの方形の掘り方を持つ浅い周溝が巡る径16m位の1mちょっとの高さの円墳です。
 古墳時代後期6〜7世紀の古墳であろうと思いますが、周溝の中に土師器壺と石棺の角の上あたりに須恵器が見つかっていますので、時期も特定できるでしょう。
 そのほか、縄文土器も各時代、特に前期と後期の終りぐらいのがでています。
 また古墳より古い弥生時代の住居が 墳丘下から発見され、その住居跡を掘っています」




発掘調査中の平戸台8号墳 撮影 08.6.01現在

平戸台8号墳の石棺を前に、常松さん(左)の説明

 円墳の南側の裾に長径3m幅2m位の筑波産雲母片岩の板石を組み合わせた石棺が検出され、ちょうどこの日はベルト状に残した土を除去する作業中でした。

 「蓋石は土を全部除去しないとわからないのですが、一応4枚、そのうち2枚目は縦に割れている状態です。
 たぶん土圧で割れたのでしょうか。中は土しか見えないようです。
 近くで平戸台2号墳を調査した時は、蓋石4枚でした。」

 また、周溝内に埋葬にちょうどよい大きさの楕円形土坑が2基以上あるようで、うち1基から短刀らしき遺物が出てきたところでした。


☆石棺を前にして

 大塚先生が石棺をご覧になりながら、過去のご経験を踏まえたお話をされました。
 そのお話の一部をご紹介します。

 「後期型式の円墳では、墳丘に土を盛ってからあとで「掘り方」(石棺を納める土坑)を掘る。
普通だったら墳頂部ど真ん中に主作るのが常道だけれど、千葉県では、墳頂部に石棺を埋めるとは限らない。
 早稲田大学の市毛勲さんが「変則的古墳」といっているが、特に九十九里沿岸の前方後円墳ではくびれ部に造るから、ここに狙いをつけて掘るということもある。
 我孫子の日立精機工場内の古墳群などでは、前方後円墳でも裾のほうに造られている。 中心部からわざわざずらして主体部を置くというのは、この地方の風習なのかもしれないね。 
 直径十数mの円墳で石棺だと7世紀に入っていると思われるが、最近は須恵器で年代を決めるようだから、周溝から出ている土師器や須恵器で決まるでしょう。

 6世紀後半か7世紀代になると、石棺ひとつということもあるが、複数ある場合もある。
 そしてこのころの古墳だとすると、前に調査した平戸台2号墳で15体、たぶんそれ以上いっぱい人骨がつまっていて、成田で調査したのは18体入っていたのもある。

 何が出るかわからないからしっかり段取りをしてから蓋を開けることになるでしょう。」




平戸台8号墳の石棺蓋石

古墳発掘のポイントについて語る大塚初重先生




 古墳の裾には複数の土坑がある
☆石棺の石材と構造、そして・・・

大塚先生のお話の続き

 「石は筑波石といわれている雲母片岩、千葉県はほとんどこの石の箱式石棺だが、木更津の金鈴塚は、秩父の緑泥片岩です。
 香取の海を渡ってきた筑波石の石棺、この蓋石を開けると、長方形の石棺があるでしょう。

 箱式石棺でも時代によって多少特徴が違う。
 昭和30年に行方の沖洲の三昧塚の箱式石棺は底石が浅いけれど側石がうんと深くまで入っている。
 時代が下って、たぶん8号墳ぐらいになると、底石と側石の端が同じレベルのボックスになっている。
 また古い箱式石棺では、側石が前後に出ているという特徴がある。

 今回は、蓋は割れているから最初は土が出てくる、その土を剥いでいくと骨や遺物が見えてくる。
 何が出るかわからないから、鉄剣10本分の竹を割ったような入れ物、ガラス玉・イヤリングなど出ても整理できる箱を用意し、用意万端、段取りを全部やって、さあ、開けると、何にも出ないときもある。」(笑)


☆かつて石棺の蓋を開けるときは・・

  「行政で成田ニュータウンの発掘では古墳をいくつも掘ったけれど、やはり昔のひとの墓だから、ちゃんと拝んだほうがよいね。
 僕らはお坊さんや禰宜さんを呼んだけど、今はしないのかな、まあ線香の1本ぐらい立てたほうがよいかな。
 私の先生の後藤守一先生は、石棺の蓋を開けたときは「一升買って来い」と言って捲くんですよ。
 千何百年ぶりに出てきた昔の人のためといって。ところが五月六月の気候だから、ハエがわーっと集まってきちゃって。
 やはりお酒は人間が飲んだほうがよいね。(笑)

 写真撮影、実測、そしていよいよ石棺の蓋石を開けると伝わると、遠方からも人がどんどん集まってくる。
 市役所もちゃんと交通整理の人を出しておかなければならないでしょう。

 昭和30年の茨城県の三昧塚の蓋は開くときは、昔は携帯電話がなかったのに、あっという間に情報が広がり一万人以上の人が集まってきて、古墳の周りにラムネ売りなどのお店さんも出た。
 昭和4年、後藤先生が掘った静岡県では、人がいっぱい来て、静岡地方専売局がたばこの販売をしていた。

 なかなかこういうチャンスは少ないから、八千代市民が多くの方がぜひ見られるとよい。そのときは私も見たいね。」

 大塚先生の面白いお話は尽きることがなく、時間をオーバーして見学を終わり、満開のあじさいが咲き誇る印旛村のあじさい通りを走って、印旛沼北岸の栄町へと向かいました。


⇒ 姿を現した八千代市平戸台8号墳=その発掘調査と見学ルポ