2004.3.22 By.ゆみ
古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅 Z
2003.12.28
-夕暮れの葛井寺から城山古墳、「下の太子」へ-
百済王族末裔の氏神・辛国神社
30年ほど前、金達寿さんの『日本の中の朝鮮文化』という本が出ました。
私にとっては、日本という国の成り立ちを再考させられたとても衝撃的な本で、この本を片手に、京都太秦や武蔵の高麗郷や深大寺を訪ねたものでした。
その第2巻「百済王族をめぐって」という項に「渡来の民が目白押し」というサブテーマがあります。
百済王族の系譜から分かれた氏族は、葛井氏族=辛国神社・葛井寺、船氏族=国分神社・野中寺、津氏族=大津神社・善正寺をそれぞれ祀っていたようで、まさに「河内にはこれら百済王族から流れ出たものとされる大豪族が、あちこちに目白押しとなっていたもののようである。」とのことです。
その中でも、まさにその名も象徴的な「辛国(からくに)神社」=「韓国神社」をたずねてみました。
辛国神社では、ちょうど大晦日の祓いのために茅の輪くぐりが準備されてました 「蘇民将来、蘇民将来」と唱えながら8の字に廻ると無病息災、厄除け、商売繁盛のご利益があるそうです |
藤井寺の「葛井寺」へ
辛国神社から商店街通りの向かい側に行くと葛井寺があります。
寺伝によると天平の初期、河内葛井の里にいた百済王族子孫の葛井給子の旧跡に、聖武天皇勅願によって寺院を創建、稽文会父子(春日仏師)に「千手観音」を作らせ、神亀2年(725) 行基を導師に開眼したとのこと。
その後、永長元年(1096)、大和国軽里の住人、藤井安基が荒廃した葛井寺を訪れ再興し、安基の苗字をとって村名のほうは「藤井寺」に改めたといいます。
「観音霊験記」で潤色された藤井安基は、鹿の肉を食って地獄に落ちたかなりの暴れん坊。観音の霊験で悔い改めて蘇生し、改心後は寺の復興に働いたということになっているが、実態はわかっていないらしいです。
「葛」と「藤」。音が同じ「ふじ」なのに、お寺の名前と地名・市名で字がちがうというややこさ。(合わせると「葛藤」(かっとう)まさにややこしい!)
葛井氏は、養老4年に葛井連姓を賜わる以前は白猪(しらい)史。そして後世は藤井と称するものも存在したらしいとすると、藤井安基という人の名が登場する11世紀末には、一般的にもう「葛」は「ふじ」とは読まなくなっていたのでしょうか。
この観音霊場はその後、西国三十三観音になって、よりいっそう盛んになったようです。
葛井寺「南大門」の仁王様
門前の道しるべ 右は「つぼさか よしの はせ いせ」
左は「道明寺 たつた ほうりうじ なら」
本堂と灯篭(「聖武天皇御寄附 寫紫雲石燈篭」の写しとか。)
観音講の寄進した西国三十三観音霊場供養碑
ここで、札所参りができてしまう!
津堂城山古墳の日没
葛井寺を出ると、ほとんど陽が傾いて、あたりはもう薄暗くなっていて、奈良への帰路は、大阪平野を北上して、東大阪JCTから第二阪名道路から生駒トンネルで戻ることにしました。
北上すると大和川を渡る手前の津堂に大きな古墳が見えてきました。
墳丘の長さが208メートルの城山古墳。河内平野に初めて造られた大王の古墳といわれています。
陵墓参考地には、後円部のごく一部しか指定されていないので、登ることも可能です。
カメラを構えていると、今日一日晴天を恵んでくれた太陽が静かに沈んでいきました。
周溝の跡。後円部のカーブがわかる
戦国時代に城郭として使われた遺構でもある
下の太子 大聖勝軍寺へ
大和川を渡ると、なんとこんなところに八尾飛行場があり、その先に太子堂という町があります。
叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」という聖徳太子ゆかりの大聖勝軍寺はここにありました。
ここは、蘇我VS物部戦争の際、かつて物部軍が陣取った場所。
境内に祭られている椋の木は、物部軍に追われた太子のために、二つに割れて太子の身をかくまったという伝説があるそうです。
日が暮れた夜空の梢の先には月影がかかり、さすが境内ももう薄ぼんやりとしか見えません。
河内の史跡めぐりもここが終点になりました。