2001.7.26 by.ゆみ
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「親指のマリア」=鎖国下の白石との出会い
1952年、北海道から上京した父は、私たち家族を率いて、建築さなかの碑文谷教会に通っていた。
スターたちの結婚式で今はすっかり観光名所になった華麗な聖堂だが、当時は野っ原に建つ、装飾もまだ少ないただ大きいばかりの教会だった。
創設した修道会の名をとって通称サレジオ教会、正式には「江戸のサンタマリア聖堂」。その名前は、1715年鎖国下来日したイタリア人宣教師シドッチが所持した「悲しみの聖母」に由来するという。
そういえば、右脇祭壇に、その複製画がひっそりと飾られてあった気がするし、教会の記念行事の際など、その「御絵」が配られ、「江戸のサンタマリア」の歌を歌った想い出がある。
父はこの聖母像が好きで、晩年にはこの絵を題材にしたステンドグラスの下絵を何枚も色紙に描いては親しい人に贈り、そして色紙の裏には「江戸のサンタマリア」の歌詞を記していた。
父のため臨終の床で、またその葬儀で、家族はこの歌を涙とともに歌った。
実はこの歌詞の二番から四番に、この絵の由来が詠われている。
二、まぼろしのおだ卷の糸 くりかえし 昔を今に うかび見る
とうとき姿 あゝ 江戸のサンタマリア
三、船の名はサントリニクス 渡り来る
伴天連(パドレ)シドッチ 山屋敷最後の客の 示しける サンタマリア
四、名にし負う カルロドルチの 筆というきよきかんばせ
おんなみだ 玉ととうとし あゝ 穢土のサンタマリア
四年前、初めてわがパソコンをインターネットに接続した。
まずは東京国立博物館のサイトをクリックし、館蔵品の写真データを開けてみると、
この聖母画像が鮮明に目に飛び込んできた。
館蔵品の名は「聖母像(親指のマリア)」、重要文化財のまさにシドッチの携えてきた絵であった。
憐れみと哀しみの深さのごとき群青色の被布、わずかに華奢な親指がのぞく。
「きよきかんばせ おんなみだ 玉ととうとし」
思わず、画面に映る涙の跡を指でなぞる。
母は「なにかとてもつらいことがあっても、わが子の刑死をみとった悲しみのマリアのことを思えば、なんとか耐えられるように思う」と言っていた。
神々しいほどの悲しみの表現を、ドルチは描いた。そのうちの1枚を贈られて、シドッチはイタリアから、鎖国下禁教百年近くになる日本に潜入し、江戸切支丹屋敷(「山屋敷」)に捕らわれの身となる。
茗荷谷の深い谷より「きりしたん坂」を上がった住宅街一帯がその屋敷跡というが、今は記念の石碑と、夜になると泣き声がするという八兵衛石なる自然石が残されているばかりである。
取調べにあたったのが新井白石、この逸材二人の出会いは、立場、信条の相違をふまえながらも、互いの尊敬と信頼に満ちたものだった。
この二人の出会いは 藤沢周平「市塵」、秦恒平「悲しみのマリア」など、作家たちの手になる小説にもえがかれている。
白石の著した「西洋紀聞」を読む。身分社会維持のため人の上に立つ絶対者を認めず、子孫継承のため一夫多妻を是とするなど、近世支配者の立場の白石ではあるが、道教も仏教もキリスト教も同一視して、非合理なものを信じないその思想は、驚くほどに近代的である。
白石の「武力侵略の恐れなし」との進言により、シドッチは刑死を免れ「山屋敷」に二十両五人扶持の優遇で囚禁されたが、後に彼の世話をする牢番夫婦の受洗が発覚、地下詰牢厳囚の処分を受け牢死を遂げる。
殉教同然のシドッチの死が白石に与えた少なからぬ衝撃は、のちに「西洋紀聞」をあらわすきっかけとなったという。
シドッチの信条を理解しえたか疑問は残るが、その真摯な探求心とシドッチへの共感は、聖母の画像と共に、彼の知りえたシドッチのすべての知識、信仰を世に残す結果となった。
白石はこの聖母の絵について、スケッチの横に「此女の像年の比四十ちかきほどニ見えて鼻みねたちてうれはしき面躰也…」と書きとめている。
奉行所の押収品のこの聖母像は、東京国立博物館として収蔵され、ザビエル展などの企画展でも親しく鑑賞できる絵画となった。
父が存命ならば、インターネットを介したこの鮮明な画像を見せてあげたいと思う。