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「さんたまりあ御像」=潜伏キリシタンとの再会

 

潜伏信徒再会の聖母像

 

 1999年9月、平戸から生月、外海を回り、長崎の大浦に宿をとった。 キリシタン遺跡と地域に土着した教会をめぐる旅であった。 歴史好きの友人との二人旅、彼女の家は真言宗の檀家で、祖母達の信心深い生活の幼い記憶があり、私の巡礼のような旅に、宗教民俗的な共感を持って同行してくれた。
 大浦には修学旅行以来、心にいつも離れないマリア像があった。 江戸時代の終わり、250年間厳しい禁教に耐えてきたキリシタンが復活する。 そのきっかけとなった聖母像である。
 長崎一の名所・大浦天主堂への道は、寺社の門前のように土産屋や観光客でごったがえしている。 そのにぎわいと、三十数年ぶりの再会にたかまる胸の中の想いとの落差に、私はややとまどっていた。創建当時の天主堂
 国宝大浦天主堂、堂内は当然撮影禁止、解説のテープがスピーカーから流れる。 今やここに祈りの家であることは求めるべくもないが、脇祭壇の聖母は変わらぬ優しいまなざしで、通りすぎて行く見学者を見つめていた。
 1853年ペリーの来航そして1858年(安政5年)修好通商条約が締結され、居留地内にフランス人のための礼拝堂が横浜と長崎に建設されることになった。
 派遣された宣教師の願いは、潜伏キリシタンの発見であり、大浦天主堂も人通りの多い道の近くに、1865年(元治2年)1月幾多の困難を経て完成する。
 そのロマネスクとゴシック、和風折衷の建物は居留外人にも、まして長崎の人々にも珍しく、連日の「フランス寺」見物は、長崎奉行が足止めを命じるほどであったという。 潜伏信徒発見のためのランドマーク、まさにこの使命をこの聖堂は創建時から負っていたのだ。 そうと思えば、現在の「観光名所」の有りようも納得できる。
 脇祭壇の60cmばかりの彩色石膏、フランス人形のごとく愛らしい聖母子像もまた、お伽の国のふしぎな建物ような天主堂におとらず、「フランス寺にサンタマリアさまがおられる」という噂をふりまいた。
 そして日本の信徒との再会をせつに祈るプチジャン神父に、十数人の浦上の男女がささやく。 「わたしの胸、あなたの胸と同じ」 「サンタマリアの御像はどこ?」。
 この聖母子像とこの言葉が「歴史をつくった」。 1614年の大禁教令から七世代、251年間弾圧に耐えて潜伏しつづけたキリシタンが復活した。 その数長崎地方だけで数万人といわれるが、世界宗教史上、類を見ない奇跡のような事件だった。

「日本の聖母」像

 1867年6月、フランスから今玄関にたたずむ「日本の聖母」像が贈られ、信徒発見の記念の式典が盛大に行われたが、その年の7月「浦上四番崩れ」と長崎を襲った大嵐が、天主堂を襲う。
 さらにその翌年成立した明治新政府のキリシタン政策は、浦上信徒3380名の根こそぎ総流罪(うち562名が死亡)という過酷な弾圧であり、五島列島でも陰惨な迫害が200名中42人以上の信徒を殉教に追いやった。(大浦のホテルの食堂で、たまたま相席した五島出身のご婦人は信徒ではなかったが、今も伝えられるの五島の悲惨な出来事を語ってくれた。)
 白く清楚な「日本の聖母」像は、十字架の下にたたずむ「悲しみの聖母」のごとく聖堂の外のこの受難の日々を見届けることになる。
 キリシタン弾圧政策は、不平等条約改正をめざす明治政府に対し、信教の自由を問う厳しい国際世論となる。そしてついに明治6年(1873)切支丹禁制の高札が撤去、浦上信徒の長くつらい流罪も終わった。
 この浦上の受難の記憶は「旅の話」として今も語り継がれ、浦上教会のホームページにもその詳細な記録が載っている。このHPの小教区の歴史を読むと、高校時代に衝撃を受けた片岡弥吉氏著「浦上四番崩れ」の本を思い出す。
 信教の自由という近代文明国にとってごくありふれた自然法的人権が、良心に正直な農民達の無抵抗の抵抗によってはじめて日本で実現しえたという史実、片岡氏の本は私には忘れられない一冊であった。

 

 復活キリシタンの苦難は高札撤去後も続く。流刑中に家財道具は略奪、家も破却され、耕地は荒れるがままの極貧の生活を飢餓と疫病が襲う。信徒の困窮をその才能と技術、熱意によって救ったのが大浦天主堂付のド・ロ神父であった。
 やっと生活の安定をえた明治8年、ド・ロ師によって木骨レンガ壁の神学校が完成、12年天主堂が増改築された。外観はシンプルな現在の姿に変えたが、プチジャンと潜伏信徒の出会いを記念するため、創建時の構造をそっくり新聖堂の中に収めた改築であった。大野教会
 その後、ド・ロ師は、外海の信徒のため活躍する。信仰を守るため、出津そして大野など、環境厳しいこの僻地に住みついた信徒の生活は楽ではなかった。
 タクシー運転手に無理を言って、大野教会堂を案内してもらった。 明治26年ド・ロ師が信徒と手作りで建立した小さな聖堂は、県指定文化財になっていた。 村の分校のようなお堂、地元産の石を用い漆喰で固めた「ド・ロ壁」に守られ、外海の波風に耐えて今も健在である。
 観光客でにぎわう大浦天主堂と対称的なほどひっそりとした大野教会堂。 過疎化のため、記念日のミサや葬儀にしか使われないと聞くが、長崎の信徒はこんな小さなお堂を今も大切にしている。
 外海にはまだカクレキリシタンの家が点在するという。 出津などにド・ロ師が宣教のため製作した「ド・ロ版画」が残っている。 西洋画というより、近世のお寺が絵解きに使った来迎図や地獄絵のような独特の絵であった。 明治に再来したカトリシズムが、カクレの信仰を含め当時の民衆信仰とないまぜになったような世界、その中に身を捧げたド・ロ師は、遺言により外海の土となった。早朝の大浦天主堂と旧神学校

 

 大浦のホテルを夜明け前に出て、大浦教会の早朝ミサにむかう。 大浦天主堂の向いの赤レンガ風の教会堂。 昭和50年、観光客の増加に伴い、教会活動に不都合となってきたため、大浦天王堂の隣接地に新たに建立されたモダンな教会である。
 平日の早朝、数十人の信徒がミサの前から長い祈りを唱えていた。 さすが、長崎の教会である。
 夜が明け、朝の光がステンドガラスを彩る。 9月15日、奇しくも「悲しみの聖母」の記念日、父の納骨式からちょうど一周年の朝であった。

来迎図のような「ド・ロ版画」(堂崎天主堂で撮影)