2001.11.16 by ゆみ

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納戸の「御前様」=カクレの聖母像

生月境目の「御前様」・ロザリオの聖母

 「さんたまりや、うらうらのーべす。さんただーじんみちびし、うらうらのーべす…」
 「島の館」展示室で、オラショを聞く。
 長崎から佐世保・平戸を経由して、とうとう西の果ての島、生月町のこの博物館まで来た。
 キリスト教伝来を伝える美しい教会風の展示室、その途中に切支丹禁制の高札が掲げられている。そこからは情景が一変、潜伏期の展示ゾーンに導かれ、やがて、民家の中にいざなわれて、奥の座敷裏の狭い納戸で、一枚の掛け軸と対面した。島の館の納戸にこの絵の複製が奉られていた
 不思議な聖母子像であった。 三日月を踏み、十字の立つ球と幼児を抱く聖母、ロザリオが縁をめぐる。 生月境目地区の「御前様」であったという。
 御詠歌のごときオラショは「Sancta Maria Ora pro nobis …」(聖マリア 我らのために祈り給え…)で始まる連祷のようである。
 聖画の約束事、典礼との類似、ラテン語聖歌の原形を留める歌や祈りの数々、四百年間伝承されてきた信仰形態をみれば、明治初期の宣教師ならずともなぜカトリックに「復帰」しないのかとふと思ってしまう。


 若いころ、片岡弥吉氏の『かくれキリシタン』を何度も読んだ。禁教令が解かれ、隠れる必要もない時代になっても、かたくなにその宗教形態をまもり続ける人びと。
 片岡氏はその習俗を克明に記録しつつ、その宗教性を信仰本来の宗教価値に復原せしむることこそが課題と、文中にそんな祈りにも自身の思いを吐露していた。

 

 そしてその著書から三十年、現代も取材さえままならない秘匿性の強い信仰形態が続いているのだろうか。
 片岡氏が描く世界を遠いことのように思いつつ二年前、ある新刊本を手にした。 宮崎賢太郎著・『カクレキリシタンの信仰世界』(東京大学出版会)である。
 宮崎氏はこう述べる。
 「カクレキリシタンにつながる信徒たちは、キリスト教、仏教、そのほかさまざまな民俗宗教をまったく同一なレベルで換骨奪胎し、それらの要素を自由に融合させ、独特な一つの信仰形態を形成していった」「神観念の本質を一言でいうならば、フェティシズム(呪物崇拝)的なタタリ信仰であるといえよう」。
 そして「隠れ」といっても、隠れて信仰しているわけではない。 つまり、キリシタンでもなければ「隠れ」でもない。「隠れキリシタン」とすれば、言葉と実態がかけ離れるとして「カクレキリシタン」と音のみで表記した。

 

 この本を抱えて生月に来た。
 1999年9月、まだ夏の日が海に映える明るくまぶしい島であった。
 「島の館」で学芸員中園成生氏にお会いでき、資料をいただく。 今や島の観光テーマのひとつとして展示さえできるようになった「カクレ」の現状と、展示の意図をぜひ知りたかった。
 中園氏によれば、現在島の人口八千五百人、そのうち旧キリシタンは千人強。漁村部はもう少なく、農村部の山田・元触・境目・壱部在の4地区で盛んであるとのこと。 宣教師によるカトリックへの改宗はもうほとんどなく、教会とはお互いの信仰を尊重し会いつつ、共通の殉教伝承地を守っている。 黒瀬の辻殉教記念碑 隣の藪にガスパル様の墓がある
 館では、年中行事など民俗調査の仕事をしているが、先祖からの信仰生活をを次世代へどう継承していくか、これが旧キリシタンの家の現在の課題でもある。

 

 「島の館」を辞して、キリシタン遺跡伝承地を廻った。
 黒瀬の辻、ここは生月を統治したガスパル西玄可の一家が処刑された地。 「ガスパル様」の石積みの墓の横にカトリックの有志が建てた記念碑があり、その大きな十字架はキリシタン全盛時代のように海を望む。
 そしてその先には「さんじゅあん様」殉教の聖地・中江ノ島が見える。
山田教会そして海の中、聖地中江ノ島を望む だんじく様は絶壁を下りた海岸にあった

 

 

 

 

 

 

 

 

 館浦の絶壁を下りた波打際には「だんじく様」がまつられている。 弾圧を逃れて海岸の竹(だん竹)の陰にひそんだ親子が、役人の乗った舟に発見され処刑されたところという。 

 

殉教伝承の「昇天石」が姿を顕す根獅子の浜  翌日、根獅子の平戸市キリシタン資料館を訪ねた。
 民家風の資料館のうしろに林があった。 素足でしかお参りを許されなかったという参道を行くと、「うしわき様」と称される祠がある。 ここも殉教者を葬った聖地である。
 根獅子の浜は引き潮で、渚には処刑跡と言い伝えられる「昇天石」が姿をあらわし、海水浴シーズンを過ぎて静まり返った海は美しく、感動的であった。
 「うしわき様」も「だんじく様」も、津々浦々どこの野辺にもあるような石の祠であった。

 

 日本古来の信仰形態で斎き奉られ、さらに航行の安全や子育て等などの祈願を付与されるムラの祭祀地でもあり、またそのいわれを伝承するオラショをともなって殉教者=祖先を崇拝する表現でもあった。

 

 潜伏により独自の信仰形態を作りだした「カクレキリシタン」、それを宗教の変化としてのみ見てしまいがちであるが、逆に受け容れ変化させた「日本人」という民族についてもっと考えるべき。 と、「島の館」でいただいた文章は語りかける。

 

受胎告知のモチーフ、なぜか聖母にもう赤ちゃんが抱かれている
 旅から帰ってから、『かくれキリシタンの聖画』が刊行された。 谷川健一の美しい文章、中城忠の貴重な写真、特に「御前様」(お掛け絵)の図録が完璧に収録されている。
 お掛け絵は、もとはキリシタン全盛時代からの舶来の聖画であったが、傷めばその都度「おせんたく」と称して、現在まで描き直されてきた。 
 聖母子像も、子育てや諸願成就の御神体として多くのお掛け絵のテーマだった。 原典のモチーフを変遷させつつ、16世紀舶来の聖母マリア画像は、百年単位の歳月の間に「涙の谷」を生きるフォークロアの母となった。
マリア観音
 地域の郷土史を探索していると、必ずといっていいほどムラの辻や寺社の境内で、たくさんの子安観音の石仏に出会う。さらには、地方の山里の古寺で「マリア観音」なる像が秘蔵されていたりする。


 二十六聖人記念館を訪ね、結城了悟館長にマリア観音の民俗についてお聞きした。
 結城師のお話では、江戸時代になるまで日本では赤子を抱く観音像はなかった。
 鎖国になる頃、唯一の港・長崎に福建省から白磁の子安観音像がもたらされた。今も長崎と大村藩の寺々にはそのような観音像がまつられているが、キリシタンの子孫の家から発見されることもある。
子安観音像を「マリア観音」と指定するのは形態ではなく、キリシタンの家に奉られたかどうかと言うことと、師は言われた。
 やがて平戸焼きのより柔和な像が造られ、日本中に普及する。 仏教では菩薩は男性であるはずなのに、なぜか慈愛満ちた母子像に近くなっていく。
秩父の観音霊場、金昌寺の慈母観音
 私は、江戸時代、後生を祈る女人、健やかな子の育成を願う母達に子安観音が受け容れられていく過程と、聖母像の代りとしてキリシタンの家に奉られていく過程に、そんなに大きな差はなかったのではと思う。
 「かくれキリシタンの聖画」の図録をながめていて、ある聖母子の御前様の絵に、はっとした。
 今は黒瀬の辻殉教記念碑下の礼拝堂に納められているお掛け絵、この絵に秩父の観音霊場、金昌寺で出会った慈母観音の姿が重なった。

 

 乳を含ませる母の姿。 あまりにも人間的でありながら、その慈愛に満ちた崇高さ。 
 それはこの世に生きて子を成し母となったものの信仰の姿を語っているようであり、またルネッサンス絵画の聖母子像とも共通する人類の永遠の思慕をうたっているようでもあった。

黒瀬の辻殉教記念碑下の礼拝堂に納められているお掛け絵の聖母子