2001.11.30 by ゆみ

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平和への使節=浦上の「被爆マリア」

「被爆マリア像を世界遺産へ」へリンク

 浦上教会の原爆資料室で被爆した聖母像に出会った。浦上天主堂
 「被爆マリア」とよばれたその像は、他の遺物とともに展示ケースの中、うつろになったそのまなこで空を見据えておられた。 1999年9月の長崎旅行の最後、浦上に立ち寄ったおりのことである。
 少女時代にむさぼり読んだ永井隆博士の「この子を残して」「ロザリオの鎖」「長崎の鐘」などの著作。 その博士の平和へ祈りにふれたいと「長崎の鐘」などに出てくる浦上の町を歩いて、浦上天主堂にたどりつくと、天主堂の脇には、被爆で残った石の聖人像が、たくさんの千羽鶴に埋もれて迎えてくれた。
 原爆資料室のある信徒会館の厨房で、昼食の場をお借りしながら、婦人部の方に被爆のお話をうかがった。
 被爆したあの日のことを浦上では、「五番崩れ」という。
 爆心地公園に移された旧浦上天主堂の遺構「浦上四番崩れ」は明治新政府により、浦上のキリシタン信徒が村ぐるみ流罪に処せられた事件。 「四番崩れ」で壊滅し復興した町は、再び「五番崩れ」の原爆で廃墟となった。

 

 「ここに原爆が落とされたのは、雲の切れ間にこの町が見えたというその日の天候だけが理由で、本当は他の軍都や大都会が目的だったらしいのです。 山の谷間のような地形のここでなく、広い平野の町だったら、このなん百倍もの被害が出たかもしれない。
 浦上は、人類史上最も悲惨な世界大戦に終止符を打つために、人間の罪の代償として天に捧げられた町だったと思います。」と問わず語りにおっしゃられた。
 原爆から1週間後、人々は戦争の悲惨さと愚かさにやっと気付き、奇しくも聖母被昇天の日、大戦は終結した。
 8月の原爆忌、長崎の町は祈りの町になるという。 その日にまたこの町に来ようと思った。 残像のように私の心から離れない「被爆マリア」のまなざしが、もう一度この町へ来てほしいと哀願しているように感じられたからかもしれない。

 

 翌2000年、五島の史跡や教会を巡ってから、原爆忌前夜、被爆55周年原水爆禁止世界大会に出席するため、幼児連れの友人たちと浦上で合流した。
永井隆が病床で執筆した如己堂
 長崎の街には大きな反核団体・小さな手作りの反戦平和運動、さまざまな潮流があふれていた。 前の年、工事中だった永井隆記念館は新装され、如己堂も健在だった。
 「その日」の朝、未明にホテルを出て、浦上教会の早朝平和祈願ミサに急いだ。
 広い聖堂を埋め尽す信徒、不躾な報道カメラマン、そして私たちのような飛び入りの旅人の中で、被爆55年目の朝ミサが進行していく。 祭壇に目をやると、美しいケースにおさめられてあのマリア像が奉られてあった。
 あれから一年、「被爆マリア」に心惹かれたさまざまな人とのかかわりの中で、この像は過去の罪深い出来事と未来へのメッセージを発信していたのだ。
 旧聖堂の祭壇にマリア像は奉られていた 被爆前のマリア像 
 明治6年(1873)、荒野と化した浦上に流刑地から帰村した1883人の手で、浦上天主堂はその建設が計画され、 明治28年(1895) 着工、20年後の大正3年(1914)東洋一の煉瓦造のロマネスク様式の大聖堂が完成した。
 木製の祭壇が聖堂に取付けられ、イタリアから送られた無原罪の聖母の像が奉られた。 ムリーリョの傑作「無原罪のお宿り」の絵画(マドリッドのプラド美術館に現存)をモデルに制作されたと伝えられている美しい像であった。
 一方、外の軒にはたくさんの天使や聖者の石像が飾られた。 石は天草石の粗末なもの、彫刻は天草の石仏師が、曲りなりにも仏さんに似たこの異人聖者像を刻み上げたのだそうだ。 天主堂ひだり横に残る聖人像は、たしかにユニークな顔立ちをしている。旧天主堂の聖人・天使の石像
 1945年8月、浦上天主堂の上空500mで原子爆弾が炸裂した。 一帯は猛火に包まれ地獄と化し、浦上に住んでいた12,000人の信者のうち、8,500人がその日に亡くなった。 天主堂には、被昇天の祝日の準備のため信者24名と司祭2名がいたが、全員が即死、天主堂は深夜まで燃え続けたという。
 その年の10月、一人の復員兵が浦上の廃墟を訪れる。 長崎の出身で、北海道の修道院に帰院する途上の野口神父であった。 師が深い祈りをを捧げている時、瓦礫の中から、真っ黒に焼け焦げた顔が、深い悲しみをたたえて自分をみつめていることに気付く。 天主堂の祭壇に奉られていた聖母マリアのお顔であった。
 野口師は、このマリア像を自室に安置して毎日祈っていたが、「このような聖なる物を私していることに後悔をおぼえ」、原爆三十周年の年、片岡弥吉氏の手を通じて浦上天主堂に返上した。
 以上の話を、本で読んだ佐多氏は1998年8月、浦上天主堂を訪ねた。 氏は教会の原爆資料館展示ケースの天主堂に奉られたマリア像・2000年8月9日撮影中の「被爆マリア」の像に心を痛めた。
 「プロパガンダは要らない。 ただ静かに傷ついたお顔を堂々とお見せになられているだけでよい。 人々はその前に跪き、各々の祈りを心に唱えることだろう。 それは目に見えずとも、平和を訴える大きなパワーとなって浦上から世界へ流れ出てゆくに違いない。」 まずは、展示ケースから天主堂の祭壇に奉り、そしてこのマリア像を「世界遺産」にと、よびかけた。
 私が二度目に浦上を訪ねた2000年8月、マリア像は祭壇に奉られ、ミサに訪れたたくさんの人にそのお顔を見せていらした。
 その年の7月、「被爆マリア」は旅をした。 ベラルーシの世界ヒバク展に展示されたのだ。チェルノブイリ原発事故で被害を受けたベラルーシ共和国。 「被爆マリア像や長崎の鐘が、長崎と同じ核の被害を受けたベラルーシの人々を励ますことができれば幸いだ」と長崎の被爆者ともに参加したとニュースできいた。 1985年、ローマ・バチカンでの原爆展で展示されて以来の海外旅行である。
 世界平和を願う声にこたえ「被爆マリア」は、昨今とてもお忙しいらしい。
 光を失った眼でご覧になったあの8月9日の惨状と人間の罪深さ。 それを世界に訴えると共に、深い悲しみに沈む人々に希望を与えるため、とのこと。
 「被爆マリア」の平和への行脚が続く。
 今までもこれからも、「聖母」が涙の谷に生きる者の慰めとしてあるかぎり…

現浦上天主堂祭壇のステンドグラス


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