By.ゆみ 撮影2004.10.30 up2005.3.2
30日は、五所川原から木造町・金木町・中里町を経て十三湖へ。
巨大なしゃこちゃん(遮光式土偶)の駅舎が名物の木造駅にも寄ってもらい、亀ヶ岡式土器本場の縄文資料館「カルコ」で縄文時代人の暮らしに触れたあと、金木町太宰治記念館「斜陽館」を訪ねました。
「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というフレーズを象徴するかのような明治の豪邸、その太宰の生家は、2週間前に国の重要文化財になっていました。
夜明けの八甲田山
五所川原大橋からの岩木山
↑橋の「虫送り火まつり」のモチーフ
8月4〜7日津軽では虫送りの行事が行われる
巨大なしゃこちゃん 木造駅舎
金木町太宰治記念館「斜陽館」にて
中里町立博物館で充実した展示を見て、岩木山を遠望する十三湖畔で名物しじみ汁のついたお昼をいただき、午後はいよいよ今回のメインである十三湊の遺跡群の探訪です。
十三湖畔
津軽のお地蔵様 その1
十三湊遺跡の調査は、1991年より歴博と富山大学を中心に始められ、その後青森県と市浦村に引き継がれました。
その経過と知見は、石井進先生の遺書となった『中世のかたち』にも紹介され、本州最北の津軽に中世の国際的な港湾都市があったというあらたな歴史認識を与えてくれています。
今回の現地講師は、市浦村学芸員の榊原滋高先生。かつて富山大の学生として、歴博の千田先生と共に発掘調査に参加して、今は十三湊の調査の最前線で活躍されておられます。
まずは福島城跡へ。
外郭の東土塁に登って、半世紀前の1955年、江上波夫氏率いる東大東洋文化研究所が発掘調査した門跡と井戸の跡のところまで行きました。 当時は発掘跡を埋め戻さなかったらしく、トレンチの溝が残っていました。
続いて一辺が200mの四角い内郭へ。(前日、草刈に汗を流して下さったとか。)
この広大な福島城跡は、調査当初は中世の安藤氏の根拠地と考えられていたのですが、10〜11世紀の古代の遺跡であることが発掘で明らかになったそうです。
福島城跡土塁
福島城跡内郭へ
福島城跡内郭
次は、山王坊遺跡へ。
山王式の赤い鳥居の並び建つ日吉神社は、かつて安藤氏が勧請した神仏習合の宗教施設と考えられ、境内には1980年の調査で姿をあらわした礎石群が一面の苔の間に顔をのぞかせています。
日吉神社の山王式鳥居
山王坊遺跡礎石群
津軽のお地蔵様 その2
続いて、唐川城跡の展望台で、遠く岩木山、十三湖と日本海の間の十三湊のすばらしい眺望に感動!
この湖の北の山城、唐川城も安藤氏居館ではなく、中世に再利用されたものの、土塁、堀、井戸などは10世紀の造営で古代の防御性高地集落であったそうです。
唐川城跡より十三湖と日本海
十三湖の中島にある市浦村歴史民俗資料館に寄り、いよいよ遺跡群の核心部分である十三湊遺跡へと入っていきました。
十三湖と日本海に挟まれ、津軽平野を下った岩木川が運んだ砂と、海の波の作用によってできた砂州の上に中世の港町は営まれました。
安藤氏(推定)の館と土塁、家臣団の屋敷跡、町屋、宗教施設、調査によって明らかにされたそれらの姿を、ひとつひとつ訪ねます。
晩秋の暮れは早く、日本海に沈む夕陽に急かされるように、美しい潟湖にそって展開する遺跡に心を残し、第2日目が終わりました。
安藤氏(推定)館の土塁
十三湊(トー・サム=湖沼のほとり)から見る
円錐形の靄山(モ・イワ=小さな神の住む山)
聖観音像懸仏(山王坊出土)
市浦村歴史民俗資料館
で撮影瀬戸仏花瓶
(館跡から出土)
市浦村歴史民俗資料館で撮影
中世の海の道は日本海へとつながっていた