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2005年1月30日小室山セミナー講演録 於:三室公民館
馬場小室山遺跡の「環状盛土遺構」と考古学研究上の意義
鈴木正博(日本考古学協会会員)
1.馬場小室山遺跡との出会い
私は馬場小室山遺跡が所在します緑区の住人です。以前住んでおりました大宮から引っ越してきまして、まだ二十年はたっていません。
こちらにきて最初に見に行った遺跡が馬場小室山遺跡でした。私のパートナーの加津子さんが誘ってくれまして、見に行ったのを覚えています。ただそのときの遺跡のイメージというのは、小室神社から入るのが正道のような状態でありまして、お恥ずかしながら馬場小室山遺跡を三室中学の方からは見たことはありませんでした。
ご承知のように、馬場小室山遺跡は里山そのものでして、かなり深い雑木林になっていました。
では、なぜ馬場小室山遺跡を見に行ったかといいますと、小室神社の裏に大きな穴がありまして、それを自分の目で確認するというのが目的でした。縄文時代の後〜晩期にあたる時期に、窪地を中心として当時の集落がかなり発達するということがわかって参りまして、それを自分の住んでいる著名な遺跡で確認したいというのが、そもそもの発端です。
ですから馬場小室山遺跡との関係は、浦和に引っ越してきて以来ですから、もう17,8年ということになります。
2.2003年、競売事件の教訓
馬場小室山遺跡はこれまで平穏無事に過ぎてきたわけなんですが、一昨年、競売にかけられているということを、5500人の署名が集められて保存運動がなされているという新聞報道で知りました。
それを見て、すぐこうなるとは予測しておりませんでした。そのときの正直な気持ちとしては、あの小室山遺跡がまさか民間業者の手に渡って、しかもこういう形で「拙速」な調査が行われるということは、先ず想定できませんでした。
浦和市教育委員会がいるじゃないか、と高をくくっておりました。最後には浦和市教育委員会がでるという風に絶対の確信を持っていたわけですが、残念ながらそうではありませんでした。
で、そこでふと気が付いたのは、そのときは既に大宮市と与野市と合併してさいたま市になっていたんです。これが「浦和市」であればという思いが、私の中では今も非常に深く残っております。
3.2004年、さいたま市への期待
馬場小室山遺跡は、学術上極めて突出した、優れた価値を持つ重要な遺跡であると同時に、近隣の、あるいは関東一円の縄文時代遺跡と共通する内容もあります。共通する内容に目を当てますと、ほかの遺跡と同じと思われがちなのですが、今日皆様にご説明したいことは、馬場小室山遺跡にしかない、学術上価値ある状況と形態であります。
実は馬場小室山遺跡にしかないものを、発掘調査にあたっている最中に、近隣の住民や研究者に対して、現地説明会などで情報公開していただきたいということで、9月16日に教育委員会に市議会議員の方とお願いに行きましたが、結局現地説明会はやりませんでした。なぜやらないかというと、この場に及んで保存運動が起こると困るというのが、本音にあったと思うのです。
行政として許可してしまった事情もあり、現行制度では正規の埋蔵文化財発掘調査で記録保存した上で、壊されるのはやむをえない。だけど近所に住んでいる方で5500名の方が署名して、馬場小室山遺跡を守ろうという熱意のある方々に、なぜ重要な遺跡が壊される前にその成果を現地で説明しないんですか、宅地造成が始まったらもう永久に見ることはできないのですよ、ということを調査の終わるまでの間にお願いしてまいりました。
4.日本考古学協会員として遺跡を未調査のまま破壊するのを見過ごすわけにはいかない!
実は私は調査には全く無関係でして、研究者としてボランティア精神で、破壊される直前の事態から参加しました。といいますか、参加させていただきにさいたま市教育委員会にうかがいまして、ボランティアで応援するから、期間を延長して調査を継続しましょう、短い期間の中であってもできるだけ多くの研究者を呼んで、可能な調査を継続しようじゃないかということを、お願いに行ったのが9月16日です。そのときに、同時に地域住民の方々や研究者に対して情報公開してくださいということもお願いしたのです。
さいたま市教育委員会もそれなりの努力はしたと信じているのですが、しかしながら最終的には極めて残念な結果に終わってしまいました。
5.東京新聞朝刊「強制終了」の記事を持って
さいたま市教育委員会が9月30日で調査期間終了の指示をさいたま市遺跡調査会に出しました。その翌日の10月1日には、東京新聞朝刊に「強制終了」という紹介の記事が6段抜きででまして、それをもって私は、朝一番で小室山に行きました。
そのときには、飯塚邦明さんの「縄文の森を守ろう!」という看板がまだありました。そこに電話番号が書いてありまして、それで飯塚さんに電話して、そこで初めてお会いしました。それが飯塚さんとの出会いです。
6.新たな保存運動の決意
その後、飯塚さんとご一緒に、私ども考古学に関わっているものが、飯塚さんたちが保存運動しているときにお力になれなかったことがくやしい、その反省の気持ちから、今度は、馬場小室山遺跡の考古学調査の成果を踏まえて、さいたま市教育委員会に、発掘調査は調査期間では完了せずに、未調査となった部分の対応を含めて、お願いに行きました。
何とか発掘調査の成果を住民などに対して説明していただけないかとお願いするのですが、残念なことに、公民館で地域の方にご説明することさえも出来ないというのです。
勿論、もっともな理由も想定できます。馬場小室山遺跡の調査結果をきちんと分析がおわった形で皆さんに自信をもって説明したい、というのが恐らくは教育委員会の考え方です。それはそれで大事なことですが、せめて発掘調査時の写真だけでも速報的に住民サービスして欲しい、という気持ちが強くありました。
そこで、馬場小室山遺跡は1969年における発掘調査と報告からはじまる、かなり長い調査と報告書刊行の歴史を持っていまして、そういうものをまとめた形で私の方で公民館で地域の方にお話しするのはよろしいですね、そういう形で私の方で「学術ボランティア」としてやれることはやりましょう、と。
その後もですね、飯塚さんの方で今回のために、三室公民館を通して速報のお願いを教育委員会にしたのですが、やはり難しいという回答が帰ってきたとのことで、今回こういう形での運びになりました。
7.第32次発掘調査の説明に当たって
私自身はボランティアで発掘調査の支援をしておりましたので、発掘調査そのものは主任調査員が統括しておりますので、研究者ボランティアの方々にお手伝いしていただくことの運営をマネージしておりましたので、詳しいことは全く分かりません。
ですから私がこれから説明することはあくまでも私が見た狭い範囲のものであって、全体や細部ではありませんので、これはあらかじめご了承ください。ただし、私が見たものについては、きちんとご説明させていただきます。
8.馬場小室山遺蹟は「環状盛土遺構」の代表例です
さて、馬場小室山遺跡ですが、私のほうでも過去何度かにわたり、多少研究発表などをしておりますので、過去の浦和市教育委員会の調査から分析できることについて、ご説明させていただきたいと思います。
まずプリントの1枚目、2−1ですが、一番下の左側に地図(*省略)があります。これは三室中学校がまだ出来る前の状況でありまして、谷奥である地形によって縄文時代の海進後の状況がよく分かります。地元に住んでいる方々にお聞きしますと、三室中学校ができる前は、じめじめしていた場所のようであります。
プリントの真ん中に「環状盛土遺構」の概念図(*図1)とあります。「さわらび通信」というホームページがあるのですが、そこで馬場小室山遺跡が、本当はどういう形で縄文時代の最後に残ったのかという、その姿を概念図として紹介しています。真ん中に「中央窪地」がありまして、そのまわりに古墳のような「塚」になっている「盛土」が5つまわっております。その古墳のような「塚」になっている部分というのは、1990年代に少しずつ発見されてきまして、最初に全体像が明確な形として発見されたのは、栃木県小山市の寺野東遺跡ですが、国指定史跡になっております。また、去年の11月に国指定史跡として認可がおりた千葉県佐倉市の井野長割遺跡も馬場小室山遺跡と同様の規模です。
「環状盛土遺構」という性質につきましては、研究もようやくここ数年で本格的にスタートとしたばかりで、まさにホットなテーマであります。ポイントはですね、「塚」のように高い山があって、あるいは山が全部くっついて「馬蹄形」になっているものもあります。特に中央が窪地になっています。それが象徴的であります。
しかもその広さが、まわりにめぐっております「塚」の外側はだいたい150m前後であります。この「塚」は縄文時代の後晩期につくられたのですが、馬場小室山遺跡ではその前にも集落が展開していまして、中期の大集落といっていいと思います。それがだいたい200m×200m以上の範囲で、この「環状盛土遺構」の周りに作られていますね。
馬場小室山遺跡は「塚」の迫力と集落の配置関係という形態面をとっても、掘らずに記念物として充分に残せた代表的な例です。
9.「環状盛土遺構」の正体見たり!
年代順に形成を追いますと、縄文時代中期の大集落があって、その中期の何段階かにわたる集落展開があるのですが、その200m×200m以上という大きな環状集落をなぜかいったん廃棄し、そのあとにですね、後代に高い「塚」になるような集落のベースとなるものができてきた。それが谷頭に形成されておりますが、中期の終わりごろから後期の初めぐらいであります。
馬場小室山遺跡の「環状盛土遺構」は5箇所の「塚」に竪穴住居や土坑などの遺構を長期間にわたりつくっているのですが、竪穴住居ですと地下を掘って低くなるはずですが、逆になぜか高くなっている。非常に不思議ですね。
実はこのような状態を、日本で初めて良好な状態で発見したのが、さいたま市遺跡調査会という発掘の技術者が調査をする文化財保護課の第3セクターですが、そこが行った今回の調査だったのです。非常に困難な発掘調査でもありましたので、調査期間延長と研究者ボランティアがどうしても必要だったのです。
掘ってつくる竪穴住居が世代を重ねるごとに「塚」のように高くなるということは、それ以前とは違った、なにか特殊な住居の作り方を受け入れた、あるいは集落の作り方が激変するという見方もできます。
そういういろいろな謎を解こうというのが、今、縄文時代を研究するひとつの大きなテーマであります。例えば一番下がおじいさんやおばあさんの世代の住居ですと、その隣や上に住居を作ったのは父親や母親の世代で、子供の世代ではさらにその隣や上に住居を作る、このように多世代が同じ場所で環状に地点などを変えつつ集落を、どうしてもその場所に住居をつくっているようです。その長い間の結果として、そういう「塚」が形成される特殊な集落になるわけです。
馬場小室山遺跡の縄文時代後晩期の遺構は、考古学では「環状盛土(もりど)遺構」、こういう言葉で説明しております。「もりつち」でもいいです。読み方は内容がわかればいいですから、「環状盛土(もりど)遺構」と私は呼びます。
10.「浦和市遺跡調査会」による過去の発掘調査記録
*図2
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は重要!
今回アイダ設計さんの利益増出のために、さいたま市教育委員会が、研究者や住民に極秘で、しかも不法・不当と思われても仕方がないように短い調査期間と無謀に安い経費で発掘したのは、偶然とはいえ、馬場小室山遺跡で一番大事な部分ですので、極めて遺憾で残念なことでした。
その場所はですね、プリント1枚目の下に、「浦和市遺跡調査会」が過去に出した報告書の中にですね、「調査区位置図」(*図2)という全体像が分かる内容を纏めた報告があります。その網点がかかっている部分、道路に沿った網点がありますが、ここが全部掘っている場所であります。斜線がいっぱい重なっているところがあると思うのですが、そこが最後に掘った場所でありまして、その斜線の下に13とか、28とかこういう番号が書いてありますが、それは実は発掘した回数を意味しています。
今回の馬場小室山遺跡の調査は第32次ですから、それまでに31回掘られております。その31回掘られている内容もかなりすごい、驚くべき内容なのですが、本日はそれをお話しするだけの時間がありません。
下の図は発掘をした場所を示していますが、その上の図(*省略)は、発掘したあとに竪穴住居、要するに集落ですね、集落の基礎となる家族が住む住居がどういう出方をしたのか、あるいはお墓かもしれませんが、各種の遺構がどういう出方をしたのかが、中期、後期、晩期というように時期別に示されている図です。これも「浦和市遺跡調査会」が作成したもので、報告書として刊行されているものです。
これを見ますと中期では、丸く小さな円が、あるいは若干四角のようになって、その中にはまた小さな円が5つか、6つ入ってると思うのですが・・・。あるいは年代的に逆から説明したほうがわかりやすいですね、晩期の遺構には波線がかかっていますので。
要するに時期別にどこに住居などの遺構があるのか、これを見るとおおざっぱですが、良く分かります。そうしますと道路に沿った周囲は、中期の白抜きの丸い円がたくさんあります。三室中学校の近くで、小室山側に行きますと、これですと一番上の左側なんですが、黒っぽいやや影が強いのが目立つと思うのですが、ここが、後晩期が密集している地点になります。
ですから馬場小室山遺跡というのは、200m×200m以上の広大な環状集落を中期の中葉から後葉にかけて作りまして、その後、中期の終わりごろから住居が移動してきて、内側の方にですね、150m×150mくらいの直径50mの中央窪地を中心とした集落の基礎が出来てくる。しかも、その内側の集落の作り方は、先程申しましたように、盛土で古墳のように高くしています。それは中期の終末から後期・晩期の中頃までに掛けての長い間に、こうなったということです。
11.第32次発掘調査地区は「環状盛土遺構」の中心地!
もう一度真ん中の下を見てください。「三室中学校」という字の下に「宅地造成地」と書いてありますけれども、ここが今回さいたま市教育委員会が遺跡の保存運動を恐れて、不法・不当と思われても仕方がないような発掘を指示した場所でありますが、この発掘調査地区は、その模式図でいいますと、丸い塚状の古墳のようなものが、一番下に大きくかかっているのです。この土地はもともと武笠家代々の土地でありまして、実はその延長で武笠吉久さんのお宅の方にも「環状盛土遺構」の盛土部分が残っております。
その調査区は多少分かりづらいのでその右側、ですから右の下の図(*図2)を見ますと、ちょうど網点があると思うんですが、その左側にある道のですね、左側隣に、Aという文字のある左側の場所がですね、今回の発掘調査区に当たるのですが、驚いたことには全くですね、「環状盛土遺構」が無傷で手付かずの状態のまま残っていたのです。ですから、その成果たるや想像を絶するものがありました。
しかし、調査が終わると宅地造成で破壊されてしまいます。それで発掘している最中に是非皆さんに見ていただきたいな、と私が強く思ったのは、いつでも見ることができる出土品ではなく、その時に一時的にしか見られない貴重な、縄文時代の集落の姿そのものを、歴史的な事実として重視しているからです。
以上で馬場小室山遺跡についての概要はお分かりいただけたと思います。
12.馬場小室山遺跡のシンボルマーク
*図3 |
続いて、プリント真ん中の上にある拓本(*図3)が、埼玉県の有形文化財に指定されている縄文時代晩期の「人面絵画付き土器」であります。
これはある意味では馬場小室山遺跡のシンボルマークでして、その下(*省略)にあるのが、土偶を2つ土器に貼り付けている、当時の浦和市立博物館におられた岩井重雄さんが、これは男女の表現ではないか、という考察をしております土器です。それくらい珍しい土器であります。
縄文時代のこの時期になりますと、装飾が多く、磨いて丁寧につくった精製土器と、装飾意識が少なく、どちらかというとが実用的になる、粗雑な装飾の粗製土器とに大きく2つに分かれるのですが、人面絵画の描いてある土器は、どちらかというと粗雑な部類に入ります。不思議な価値観ですね?
13.浦和市教育委員会による発掘調査歴
2枚目のプリント(*省略)に入らせていただきますが、この表は面倒ですので、聞き流して頂いて結構です。
馬場小室山遺跡の発掘調査報告書第30次というのがあります。その報告書から転載させていただきましたが、何年に何次の調査がおこなわれてきたか、ということが一目瞭然に分かる資料です。
一番上の番号1から、一番下が31ですね。今回が第32次というのは、そういう意味ですね。で、いつ掘ったということと、その成果を報告書として出版したのがいつかという書誌情報があります。ですから興味を持たれた方は、さいたま市立図書館に行った際に、是非一度は手にとっていただきたいと思います。
最後の行にAという文字の番号があります。これは埼玉県教育委員会から出版された報告書でありまして、これが遺跡の評価としては一番大きなポイントになります。これは1985年に出版されたのですが、市が馬場小室山遺跡の確認調査を広範囲に行っています。
先程私が言いました中期は200m×200m以上とか、「環状盛土遺構」が直径150mと分かるというのは、この時点で測量図として詳細が確認調査の成果と共に掲載され、初めて全体のイメージがつかめるようになったからです。
同時に測量には県が関わっておりまして、しかも当時、文化庁におられました岡本東三さん、いま千葉大学で考古学の教授をされていますが、彼が文化庁の記念物課におられたときに、この調査を現地で指導されたということであります。
要するに文化庁記念物課の調査官が指導にくるほど、重要な遺跡だ、ということであります。
14.市民に対する馬場小室山遺跡の啓蒙運動
この重要な馬場小室山遺跡を、当時の浦和市教育委員会の方々は、是非市民の方にも理解していただきたい、浦和市が発掘した成果は大変なものであり、当時マスコミ報道もかなり大見出しで取り扱っております。それは「人面絵画付き土器」のことでありますが、それだけ当時の教育委員会の方は積極的にPR活動をしました。なぜかというと馬場小室山遺跡を後世に残したい、というその思いに尽きるんですが、浦和市郷土文化会が、教育委員会内にありまして、そこがさいたま出版会から刊行したのが、浦和歴史文化叢書F『馬場小室山遺跡』という啓蒙書であります。
15.「遺蹟の価値を考える」
ここでご紹介しますのは、浦和歴史文化叢書F『馬場小室山遺跡』の中の「遺跡の価値を考える」という最後の章ですが、やっぱりすばらしいですね。発掘して感動した方々でないと書き得ない一章です。
その中の一文を読ませていただきますと、「余すところなく展開する遺構」、遺構と言うのは建物の跡、施設の跡が残っているという、そういう意味です。ですから住居の跡とか、お墓の跡、そういうものが稠密に展開している大集落として見ており、「厚い包含層」、この厚い包含層がわれわれがようやくこの時点になって認識できた「盛土遺構」です。当時は包含層が厚いというふうにとらえたのですね。要するに、山のようで包含層がすごく厚いと認識されていたのですが、いまはそれが「環状盛土遺構」として脚光を浴びています。
「縄文文化後半の連続性」、これは次に説明しますが、集落が長い間ずっと続いている、ということですね。ずーっと続いているから、「環状盛土遺構」としてどんどんと高くなったということであります。
「種々の遺物」、本当に土器や石器など遺物の種類も量も多いです。「特殊な遺物」、祭祀に使われたと思われるような土偶や石製品とか、あるいは耳飾り、誰でも耳飾をつけられた時代ではなかったようです。今はオシャレで皆さんやりますが、そのような手軽さはなかったようであります。
「保存の良さ」、近世あるいは江戸時代になっていろいろ耕作のために土をいじりますよね。一般的には縄文時代の終わった後の土地利用ですね、弥生時代になって土地、その土地が建物や農地として使われると壊されちゃうのですよ。当然、家を建てるとすると堀り返しますから。この小室山は、弥生時代以降、古墳時代から、ずーっと現代の今にいたるまで、全く手付かずだったんですね。それはひとえに武笠家の、今のご当主が14代とおっしゃっていましたが、代々ずーっと里山として守ってきたからであります。保存の良さという点では、たぶん日本でピカイチの状態であります。
「この遺跡は、優秀な遺跡である」、本当にそう思います。しかも三室地区の方々というのは、そういう文化財に対する関心が非常に高いということなどにより、「恵まれた遺跡である」と。ここに来られている方々に、見守っていただいているのがまさに、皆さん、この今から20年前でも同じ状態であったわけです。
「未来に残していくべき遺跡である。子孫たちが、現状のまま受け継いでいきたいと期待されるであろう遺跡である。」こういうことを浦和市教育委員会の時には一般の方々に徹底しよう、という情熱でまとめていた。それだけ素晴らしい遺跡である、ということであります。このように文化財保存に対する啓蒙活動を積極的に進めてこられました浦和市教育委員会の方々に、改めまして敬意を表したいと思います。
ですから、馬場小室山遺跡はたくさん調査をし、遺跡の範囲も重要性も分かっていますし、その成果を皆で共有し、あとあとまで文化遺産として残しておこう、そういうことを浦和市教育委員会の方はやっていたのです。
16.「環状盛土遺構」の未調査部分を「学術ボランティア」で確認!
プリント2−3へいっていただきたいと思います。これはですね、馬場小室山遺跡の発掘調査に研究者ボランティアを入れましょうということで、私が9月16日に教育委員会でお願いして、いいでしょうということになりまして、私は知り合いの方々に現地でボランティアを、というお願いを、インターネットも通じてお願いして来ました。考古学研究者なら知らないものはいない「六一書房」さんが、私のメールをホームページに掲載して下さるなど、関東一円、そして長野県からも研究者ボランティアが集いました。少なく見積もっても180人日は記録されています。
その中で一番力強く応援して下さったのが明治大学の阿部芳郎さんであります。彼は千葉県佐倉市曲輪ノ内貝塚で実施していた発掘調査を急遽変更し、その調査に参加している学生・大学院生やOBを連れてきまして、毎回10名あるいは12、3名でボランティアに来てくださいました。
それで9月30日の調査期間終了と言うのは、やはり考古学研究者としては調査が完了していないだけに納得できない、「環状盛土遺構」の一番高い頂上の部分が未調査ということでもありますので、署名記事というのはなかなか新聞に投稿するのは難しいわけですが、『赤旗』という新聞が載せてくれました。ここで『赤旗』を出しているのは別に『赤旗』を宣伝するのが目的ではなくて、私どもの習性として書誌情報はきちんと出す、誰がどういうところで何を言っているかというのは、きちんとご説明する義務がありますので、紹介していることなのですが、さすがに阿部芳郎さんが書かれて内容は素晴らしいですね。特に一番最後の段落(*下記カッコ内)は是非お読みいただければと思います。馬場小室山遺跡は研究者ボランティアからはじまり、遺跡の保存に関心ある方々全員でその重要性を勉強する「学術ボランティア」へと拡大しました。
その次に私の方でも馬場小室山遺跡というのは、「環状盛土遺構」の調査例として注目を浴びるようになりました、ということを12月4日に簡単に紹介しております。その部分にアンダーラインを引いておきましたけれども、そこで引用しているのが、この『しんぶん 赤旗』であります。
つまり、これだけ大事な遺跡ですから、情報公開を出来るだけ速く、特に地域の方々へは優先的にお願いしているのですが、残念ながら、さいたま市教育委員会の現状では、何故か埋蔵文化財に対しては国民共有の財産という観点を無視して、住民サービスができていない、そういう事情だということが、これだけでもお分かりいただけるかと思います。
(* 発掘期間延長の中、休日を返上して各地から集まった研究者や学者たちは、単なる発掘作業員として支援したのではない。そこには今回の調査成果を将来に生かし、未調査地区の保存と活用を願う長期的なスタンスの上にたった学術ボランティアとして参加しているのだ。私たちはいま危機にひんした馬場小室山遺跡に熱いまなざしを注いでいる。)
17.第51号土坑の衝撃
ちょっとお話が暗くなりましたので、この辺で楽しい話に変えましょう。プリント2−4をご覧ください。
先程、「環状盛土遺構」という集落が今学会でスポットをあびていると申しました。文化庁の記念物を担当するものにとっては、国史跡指定の対象になる遺跡ということですから、集落としても突出した形態で、縄文時代を代表する記念物としてこれは後世に残すべきだ、という学術上価値ある遺跡であります。
更に馬場小室山遺跡が凄いのは、ここにしかないものがあるからです。第51号土坑と申しまして、これは直径3.5mちょっとあります。深さも同じくらい、3.5mくらいです。
なぜこれが馬場小室山遺跡だけの特徴かと申しますと、プリント2−4に土器が並べてありますけれど、これは馬場小室山遺跡から出土した良い土器だけを集めて、配置したのではないのです。第51号土壙の中に全部埋まっていた、30数個ですが、数が多けりゃいいっていう話ではありませんが、それだけの数が埋納されていました。
その30数個の土器は実は大きく三つの時期に分かれます。晩期の初め、つぎの前葉、そして中頃と、先程多世代の住居があるとご説明しましたけれど、もう一方でこういった大穴、いわば4mくらいの広く深く、大きい穴の中に多世代で使った土器が最終的な姿として一括されています。
18.第51号土坑のキーワードも多世代!
縄文時代にこうした規模の土壙はあります。しかしながら中からは馬場小室山遺跡ほど大量に原型をとどめた形で遺物が出ることは無く、少ないか、何もでない。何も出ないというのは腐っている、たとえば木製品をたくさん入れたりすると腐って残っていませんので、なかなか出ませんから、掘っても何も出ないということと理解してください。
第51号土坑ではこれだけの土器が出ています。ところがあまり脚光を浴びないのです。なぜ脚光を浴びないかというと、そのなかに「人面絵画付き土器」が入っています。これが県指定の有形文化財であります。
実は、歴史的な意味合いまで含めて県指定の文化財に指定するのであれば、第51号土坑から出土した全体が、ですね、全体で意味をなすものでありますので、顔の描かれた土器だけを取り上げるというのは骨董趣味ならいざ知らず、ちょっと解釈が難しくなる。
最近は、ここ10年くらいは一括で、国の重要文化財に指定されるようになりました。ですから、これが県指定とされた時代の有形文化財に対する価値観でして、勿論、掘ったときには考古学として全体がそういう価値観だったと思うんですが、最近になってようやく一緒に出たものすべてが意味ある、すべての中でたとえば「人面絵画付き土器」の意味を考える、まあそういう歴史的な解釈へと有形文化財の指定もだんだんと進展してきたということだと思います。
ここで第51号土坑の重要性を確認しておくならば、高くなった「環状盛土遺構」の残された跡が多世代ならば、深く掘った大土坑も多世代でありまして、馬場小室山遺跡では「塚」であろうが、「穴」であろうが、キーワードは多世代、多世代が同じところで長く、多世代が同じところに住居や墓をつくり続ける、という不思議な現象であります。
そして、第51号土坑は「環状盛土遺構」の裾部という盛土の干渉をさけるような位置に構築されているのです。
こういう状況がこれからおそらく問題にのぼるだろう。そしてそれだけ第51号土坑というのは、「人面絵画付き土器」が見つかっただけではなくて、一緒に出ている、これだけの数が、ある歴史的な意味を持つ、そのような重要なコンセプトのなかに全てがつながった上で、「人面絵画付き土器」がある、と観ていただければと思います。
19.例えば、「角底土器」一つとっても意味深長です!
*図4 |
*図5 |
実際にこのなかの土器を見ても、実は「人面絵画付き土器」だけではなくて、珍しい土器があります。
それはですね、真ん中の第7図、第51号土坑の第7図とあります。(*図4)
ちょうど真ん中5番と6番、似た様な土器ですが、縄紋があるのと縄紋がないのと二種類ありますが、この土器は縄文時代晩期の「角底土器」といいまして、底の平面形が四角いのです。
縄文時代の土器は大体みんな底の平面形は丸く作っているのですが、南九州、特に鹿児島県の早期には「円筒土器」と「角筒土器」といって底の平面形が四角だけではなくて、胴部も四角い土器ですが、盛んにつくられています。また、草創期という古い時期には四角い底をもつ土器が多いということはあるんですが、縄文時代晩期になってこういう「角底土器」というのは非常に少ないのです。
しかも一遺跡で多数出土が報告されている例というのはあまりなくて、むしろ「角底土器」が検出されない遺跡もありますから、かなりの貴重品です。それがしかも一つの土坑に2つも入っている。ですから今は、その「人面絵画付き土器」だけが注目されていますが、おそらくこれからは第51号土坑の中身全体が、果たしてどんな意味を持っているかを分析するような方向へと、研究が進むことになると思います。
20.縄文時代全般を通した土地利用の中核場所が馬場小室山遺跡
馬場小室山遺跡の重要性の最後の特徴ですが、プリント2−5です。馬場小室山遺跡の最後の特徴は、私にとってみると最大のポイントです。先ほどの「環状盛土遺構」の形成も、また第51号土坑のような土器が多数埋設されている「多埋設土器群大土壙」もそうですが、馬場小室山遺跡が他の遺跡に比べて誇れるものは何かというと、実はあそこにすんでいる縄文人の歴史が非常に長いということです。
「馬場小室山遺跡における出土土器とその動き」という表(*図5)がありますね。波のように線があってこう右側に出ているのが大勢の人がいて、左側に引っ込んでいるときは人が少ない、そういうことを概念的に示しているのですが、これを見ますと縄文時代というのは、縄文時代以前の土器を持たない時代からの移行期のような時期がありまして草創期と呼んでおりますけれど、これは本当に検出が少ない遺跡ですので、なかなか検出されないのですが、これはさすがに馬場小室山遺跡にも出てないですが、これ以降の列島における貝塚形成期以降の、ほぼ全期間にわたって人が住み付いていた、あるいはこの土地を利用したようであります。
ただ考えなくてはいけないのは早期のところは周辺に、たとえば三室小学校のところには三室遺跡といって撚糸紋の土器、この表でいいますと早期と表示されている古い方の土器が出てるんですが、そういう遺跡のキャンプサイトみたいな場所であったかもしれません。ですから中期や後〜晩期のように、そこに大きな集落を構えているということはなくて、そこでキャンプサイトのような形で利用した、というような程度とも考えられますが、それでも必ず縄文時代の古い時期から、この馬場小室山遺跡の地に当時の人たちは足を運んで、何かそこで活動をおこなったということであります。
21.大宮台地における縄文時代最後の土器もあった!
縄文時代の最後の土器、最後の土器というのは大変珍しいです。埼玉県でも非常に遺跡数が少ないです。そうですね、せいぜい30箇所、とか40箇所、そういう単位ですね。しかも非常に小さな破片だけでも1遺跡と数えますから、プリントで言いますと、この馬場小室山遺跡の下に矢印(→)が書いてありますけれど、そこに示した土器がそうですが、こういう形で全体がわかる土器が出土したというのは、そのあとに壊されてない、先程、保存が大変良いという話をしましたけれども、縄文時代の最後の土器もちゃんとそれなりの形をとどめている。
縄文時代の長い間ずっと馬場小室山遺跡の地は使用されてきたのですが、その全てがきちんと後世において破壊を免れて守られてきたということであります。
22.縄文時代後期後葉は、中期終末から後期初頭の文化変動に匹敵する時期でもあります!
この表を見ると、波が右側のように発達するのが中期・後期でありまして、あと晩期の始まりのころですね。先程申しましたように中期の大きな集落の中に後期、そこに後期の後半以降にそれまでのベースの上に「環状盛土遺構」として顕著に現れる、ということであります。この後期のところに、表では下から「安行U」、「安行T」とありますね。そしてその前に「曽谷」と書いてあります。
この「曽谷式」のところで急に勢いが少なくなっていますでしょう。この時期も気候の寒冷化による後期海退の進展期で、文化変動が顕著です。
実際に「曽谷式」は、以前は「幻の土器型式」といわれている土器でありまして、なかなか集落や文化層としても、土器としても完全な形で残っていることは少なくて、少なくとも昭和50年代くらいまでは「曽谷式」はあるのか、ないのかと議論されてました。
で、今日は一番手前の赤いみかん箱に土器を持ってきました。それは茨城県出土の土器なんですが、それが「曽谷式土器」です。馬場小室山遺跡にもこれだけ全体が分かる資料は出ていませんので、折角の機会ですので、これを是非見ていただきたいと思います。
23.後晩期集落には低湿地遺跡が目立ちます!
あまり難しい話はそろそろ終わりにしたいと思います。ただひとつ、縄文時代後晩期では、じゃあこうした台地の上だけが遺跡なのか、ということであります。そうじゃないぞ、ということをご説明したいのですが、次のページ2−6(*省略)を開いてください。
馬場小室山遺跡の北側には芝川が流れています。その芝川をずーっと上流にさかのぼっていって、大宮公園にあります県立博物館のところですね。氷川神社のところを芝川の方へ行きますと寿能町がありまして、その芝川に出たところ、鉄塔がたっているのですが、そこが寿能遺跡といいまして、川べりの水辺であります。
そういう遺跡は東日本では非常に発掘例が少ないのですが、泥炭、ピート層というんですけれど、植物が泥炭になって残っている。木製品や骨とかまで守ってくれてるのですが、こういう遺跡を埼玉県教育委員会、実際には県立博物館が掘ったんですが、プリントの左上にあるのが杭(くい)の列です。
それを上の真ん中にある平面図でみても、杭があってそこにいろんな丸木というか、そういうものがついているような、そういう図を見ていただけばよろしいんですが、実は縄文時代後晩期になりますと、馬場小室山遺跡のような高いところではなくて、低い場所に遺跡をたくさん遺しています。
24.土地利用の拡大と内水面交通網の発達
先程、海進や海退と言う話が出ましたけれど、海進は縄文時代前期が海の安定のピークなのですが、それ以降、徐々に寒冷化の影響で徐々に海が引いていきます。海退といいますが、そうすると今までは海あるいは河床だった所が、だんだん時間がたつにつれて流域が少なくなりますので、そこが地上に顔を出し、生産活動の場に、要するに早い話、土地が増えていきます。
以前そこには海や水しかなかったのですが、今は低地になってますが、そういうところで生産活動を活発に行なうと同時に、海から変化した、そういう大きな湖沼、沼とか湖とかあるいは大きな川の状態を丸木舟で縦横に行き来するようになります。それがその縄文時代後晩期の状況です。
真ん中に2つ縦に並んでいる大きな木製品、これ丸木船なんです。縄文時代後期中葉の「加曾利B式」と呼ばれている時期の、あるいは一部、「曽谷式」にかかってますが、伊奈氏屋敷遺跡といいまして伊奈町でありますから、もっと北になります。
右側の方にあるのがオールであります。丸木舟をこぐ櫂(かい)であります。
25.土器とセットで漆塗りの木製品もあります
さらに寿能遺跡では、実際に木製品に漆を塗った製品がでてまいります。埼玉県教育委員会と書いてあります下に、非常に美しいデザインの木製品に漆を塗っております。下の壷ですか、そういうものにもそうでありますし、右側のこれは櫛であります。非常におしゃれな櫛ですが、ただこれは縄文時代後期になると、かなりあちこちで見られるのですが、実際にはこのような木製品は縄文時代前期頃までには全てそろっております。
26.「環状盛土遺構」形成の鍵となる新しい自然環境と集落の分散化
関東地方では、縄文時代後期以降にそういう低湿地に遺されている遺跡が非常に多いですが、実際には中期から拡大してきますということで、本当は馬場小室山遺跡だけではなくて、台地下にある低地も含めて、縄文時代後期からの当時の環境を考えますと、低湿地だけでの生活は不可能ですから、そこだけで集落として完結しているわけではなくて、やっぱり広い範囲にいろんな機能を果たす「場」がありまして、低いところでは例えば、内水面漁労活動とか、植物質の食料、どんぐりなどですね、アク抜きをする作業場とか。
縄文時代中期まではですね、台地上の集落の中に完結して「貯蔵穴群」を同じ地点に構成しておりましたが、アク抜きが出来る低い場所が形成されますとそういうところを積極的に使うようになっていく。ということは、暮らしがだんだん一箇所から分かれて、同じ集団が暮らすのにも複数の場所に分散化してきます。
しかも分散化すると当然移動が発生しますので、非常に移動しやすい交通網がなきゃいけないということで、主に全長が5m前後の丸木舟による内水面交通網が非常に発達しますが、そうなると物流のネットワークもひろがる。物流のネットワークが広がるということは、実は「よそもの」も入ってくる、ということを意味しています。
27.新たな文化の流入と「環状盛土遺構」の土台形成
*図6 |
弥生時代と同じような文化変容という意味で、「よそもの」がはいってくるという、新たな文化変容がですね、この後晩期の文化の最初に顕著にあらわれてくるのです。
「よそもの」というのはどういう集団かというと、最後の資料ですが、これはさいたま市遺跡調査会の柳田博之さんという方が1992年にまとめたものです。その方は今回の馬場小室山遺跡第32次調査の主任調査員で、猛暑の中を一生懸命調査され、これまでの調査では中々検出できなかった、馬場小室山遺跡の「環状盛土遺構」の正体を見事に発掘調査によって解明した方です。
三室中学校のホームページで生徒に対して説明している方がこの柳田さんであります。非常に丁寧に説明してくださる方です。プリントのこれは住居址の輪郭を示したもので、「柄鏡形」の住居址です。たくさん出ておりますが、こういう住居址が中期の終末から後期初頭になると大宮台地にも突如として出てくるわけです。出てくるのですが、単にそれは大宮台地での中期の住居址の形態が変遷して変わっただけじゃないか、という見方もあると思いますが、しかし、この住居址の形態は系統的にどこから出現してきたのか、今それが学会では話題になっています。
大事なことは、例えばですね、10番、第1表の10番、鎌倉公園、これは山形洋一さんという大宮市教育委員会の方が調査した重要な遺跡ですが、ここの住居址の平面形の組み合わせを見てください。例えば、「加曾利EW」と記されている3号住は「柄鏡形」(*図6)。6号住は「円形」ですね。
つまり、皆さんお宅の近くで考えてください。同じ文化を共有している人は住居も同じ様式にしませんか。ところがこの時期になると、それ以前の住居の形である「円形」だけではなく、違う形態の「柄鏡形」の住居に住む集団が、すぐ隣に住んでいるのですよ。普通はみな同じ様式や形にしますね。
集落総出で住居をつくると思うのですが、ところがこういう新しい状況が出てきて複雑な関係が形成されている。それが中期終末から後期へと移行するときに観られる大きな文化変動であります。
28.馬場小室山遺跡の「環状盛土遺構」は縄文時代後半のおおきな「うねり」の長期的な記念物!
中期終末から後期初頭におけるような大きな文化変動を、後期後葉の「曽谷式」の時期に再度経験しますが、それ以降晩期「安行式」にまで長期にわたって継続しますと、次には馬場小室山遺跡みたいな、ダイナミックで突出した「環状盛土遺構」が、最終的には縄文時代の記念物として形成されるのです。
縄文時代から弥生時代への移行では灌漑農業、水田稲作が出てくると同時に、大陸系の集団も渡来してきたと言われ、非常に脚光をあびていますが、実は新たな文化の流入や集団の移動という意味では、長きにわたる縄文時代の中にも、「よそもの」が入ってきて、従来から住んでいた人たちと協調して、新たな文化として変容させ、際立った遺跡を残すという様なこともあるのです。
ですから、結論としては、馬場小室山遺跡は、そういう日本列島における気候変動と文化変動の狭間にあって、二度にわたる大きな「うねり」の凝縮としてですね、正に馬場小室山遺跡だけ観れば、縄文時代後半の二度にわたる大きな「うねり」が分かってしまうような、そういう素晴らしい遺跡であるということを申し上げたいと思います。以下、第32次調査のスナップについて説明しましたが、ここでは省略させていただきます。
本講演録は、さわらびTが入力作業をし、講師の鈴木正博氏に監修いただき、セミナー主催者の飯塚邦明氏のご了解をえて、HP「さわらび通信」に掲載しています。
なお、レジュメに満載された貴重な図版は、紙面・ファイルの量に限りがあり、ほとんど省略せざるをえませんでした。レジュメに関してはHP「ばんばおむろ山」の連絡先より主催者にお問い合わせください。