2005.3.30 By.ゆみ

17 馬場小室山クリーンアップ & 廃土中の遺物救出大作戦



3月27日 馬場小室山クリーンアップ大作戦の朝

 再三の要望にもむなしく馬場小室山遺跡の西側民有地部分は、住宅地となってその現状は失われましたが、さいたま市の市有地であった中央窪地とその北側の盛土遺構については、地元の皆様の働きかけにより、市の史跡に指定するとさいたま市は市議会で約束しました。

 この史跡予定地を、史跡としてふさわしい市民の憩いの里山となるよう、みんなの手できれいしようという提案が、地元の飯塚氏からありました。

 ご近所の方々とゴミを拾いながら、地形の特徴を知っていただき、遺跡としての理解を深めていただくよい機会でしたので、4月中ごろにしようかと検討していたところ、2月26日、突如市有地部分に重機が入り、大木を伐採したという連絡が入り、その破壊現場の視察も必要ということで3月中の実行になりました。 

 さらに、3月に入って、馬場小室山遺跡から未調査のままダンプで持ち去られた遺物包含層の土の行方が判明し、おびただしい土器片が散乱しているという事態が伝えられ、合わせてこの視察と遺物の緊急救出もおこなうことにしました。

 そしてそのあとは、馬場小室山遺跡研究会第4回ワークショップでお勉強も、というまたまた過密なスケジュールです。

 飯塚氏・鈴木氏で、さいたま市用地管財課に市有地立入りの申請も提出、ごみの処理については環境整備課にも相談、あとは春の不順な天候がちょっと心配なだけという準備万端の中、27日の朝を迎えました。


「これからクリーンアップ大作戦を始めます」
空は 雲ひとつない快晴!

住宅地寄りの市有地の大木が切り株が痛々しい

 3月27日の朝は雲ひとつない快晴。
 午前11時集合場所の小室神社参道入り口には、ご近所のご家族連れや遠くから駆けつけた馬場小室山遺跡研究会のメンバー20数名が集まり、鈴木正博さんに事前説明をいただき、市有地の森の清掃を行いました。

 


遺跡の現地説明
「あの辺りが未調査で消滅した盛土遺構があったところ」

馬場小室山クリーンアップ大作戦が終わって
 窪地のうっそうとしていた竹は、管財課のほうで切ってまとめてありましたので、幾分歩きやすくなっていましたが、無造作に切られてたけやきの大木の切り株や、重機で盛土遺構の上に無造作につけた道には、唖然としか言うほかはありません。

 つい最近まで無管理状態だった市有地は不法投棄の山でした。

 市民による清掃活動は、順調に進み、ビン1袋、カン1袋、PETボトル1袋、危険物1袋、燃えるゴミ、燃えないゴミ多数、その他は自転車4台等の粗大ゴミをまとめて、三室中学側の入り口に集積しました。
 (翌日、大崎清掃工場に連絡して回収してもらったそうです。)

 今回も初めての方も多かったので、お掃除が終わってから、鈴木正博氏に遺跡の概観を現地説明いただきましたが、周りの様相は本当に一変していました。


 また、遺跡の重要性を知らせるため、市有地の縁に立てられた飯塚さんの風雅な看板も3日前の24日に市に撤去されていました。
 遺跡の名物になりつつあった手作りの風雅な看板で、初めて遺跡に来る方々にはその概観がつかめる文字通り市民の手による文化活動の証だったのです。

 隣の破壊された遺跡の上では、住宅用地販売の現地説明会が、のぼりを林立して派手に開らかれています。

 遺跡の重要性を訴える飯塚さんの看板が撤去されたのも、市有地の森の大木も無残に断ち切られたのも、このための業者への市の「心遣い」かと、みんなで納得?(憤慨!)しました。








見沼田んぼの「馬場小室山第2遺跡」の視察と遺物の救出作戦


このような状態で土器片散乱しています
(画像をクリック)
 昼食後、発覚した「馬場小室山第2遺跡」の視察を行いました。
遺跡から大量に搬出された貴重な遺物包含層の土が、見沼田んぼに「盛土」を形成している状況をみんなの目で確認します。

 
 場所は、1月30日に食事をした「やまぼうし」のレストランを北へ芝川方面へ行き、橋を渡る手前を右折した地点2ヶ所と、さらに東へ行った橋の手前でした。

 縄文中期は海、そして中世までは沼であった広い見沼田んぼは、江戸時代干拓による水田化に成功したのですが、今は水稲耕作をやめ、残土を入れて、植木や野菜の畑になっています。

 すでにその状況は「Don PanchoのHP」「橿原日記」と、「馬場小室山遺跡・緊急特設ページ」「【発覚】馬場小室山遺跡の埋蔵文化財が見沼田んぼに」で緊急アップしていただいたので、概要はつかんでいましたが、実際に目で見ると本当に夥しい量の土器片です。

 これほどの量の土器片が散乱しているということは、遺跡が未調査で破壊された証であり、また貴重な文化財が散逸し永遠に失われる重大な問題です。

 さらにそれだけではなく、昨年10月の時点で鈴木氏がさいたま市教育委員会にその防止を陳情した際に指摘したように、遺物包含層の移動がのちに遺跡の捏造まがいの混迷と学術的な混乱を引き起こしかねないという、文化財保護上とんでもない事態なのです。

 ひろい見沼の低地でも、かつて芝川流域には低地性遺跡が数多くあり、縄文人の生活が営まれてきました。
 地元の方々の必死の探索で見つかったこの3地点のほかにも、未知の搬出廃土の廃棄場所があることでしょう。

 そしてその場所が特定できないまま、将来多量の土器片の出土をもって、縄文後晩期の低地性遺跡と早合点される事態が懸念されます。

 遺跡破壊で大きな誤りを犯してしまったさいたま市の文化財行政が、その負の遺産をさらに永遠に担い続けることにならぬよう、搬出遺跡包含層の特定とその地点の遺跡指定を至急に行い的確な管理をされることを望みます。

 

法面にも土器がいっぱい
(第1地点)

見沼田んぼの「馬場小室山第2遺跡」第1地点を背景に
今回救出した土器片を集めて写真を撮りました
この何百倍もの遺物がこの盛土の中に放置されています

ここは遺跡の樹木など
廃棄物埋め立て用?の残土(第3地点)

黒曜石の剥片やたたき石などの
石器も拾いました

安行式土器

精巧な注口土器のかけら(加曽利B式)

 今回、私たちが見たのは、大小の土器片が無数に地表面や盛り土の法面に散乱している状況でした。
 植木の畑用の2地点と、廃棄物処理用に積載してある1地点で、私たちは周辺から拾える土器や石器だけを集めましたが、それはものすごい量でした。
 私はあまりにもきれいなので縄文土器とは思えなかったほど、精巧な注口土器の欠けらを拾い、ほかの方は黒曜石の石器なども見つけていました。

 なお連絡先を事前に把握できなかった地権者の方には、当日お会いした時点で、やむをえず立ち入った件をお詫びし、ご了承いただきました。




ワークショップの会場は
ティーサロン風の学習塾の教室
井野長割遺跡出土の「橿原式浅鉢」
⇒画像をクリック

2004.9.27井野長割遺跡シンポジウムにて撮影

「柄鏡形の住居とは・・」
馬場小室山遺跡研究会第4回ワークショップ

 午後3時半からは、ティーサロン風に準備して下さった学習塾の教室をお借りして馬場小室山遺跡第4回ワークショップを始めました。

 はじめは鈴木正博氏による内水面ネットワークのお話。

 前回の、環境変動による海退現象と、縄文時代の関東地方の海岸線、貝塚の分布の変化を地図で把握した上、内水面交通による縄文遺跡の生活文化圏を探ってみます。 

 2月20日の佐倉の井野長割遺跡の展示で見た珍しい土器として「橿原式浅鉢」がありましたが、これと同じ型式の浅鉢が寺野東遺跡でも出ています。
 この土器は西日本系の土器で、時代の大きな変わり目に出現する関東では珍しい土器です。

 また佐倉の吉見台遺跡で出土の曽谷式深鉢と、うりふたつの土器が茨城県の山王堂遺跡でも出ています。
 土器が一致しているということは、土器が動いたか、土器を作る人が移動したか、いずれにせよ、印旛沼から古鬼怒湾を経て小貝川、鬼怒川に至るエリアが同じ生活文化圏ということになるでしょう。

 一方、川口の安行から武蔵野線辺りまでは海だった大宮台地の馬場小室山付近は、後期に海辺が引いていきます
 この低地を利用するノウハウがあったのは西日本の貝塚をつくった人々でした。

 中期に群在した貯蔵穴は後期に群ではなくなり、水場遺構のような低地に移り分散化します。

 水辺の交通が発達して集落も分散化し、生業が分業化して、晩期には霞ヶ浦浮島では製塩業が盛んになり、黒曜石などとのバーターで塩蔵の海産物(マダイなど)や干し貝が流通するようになり、遠隔地への物流も盛んになります。

 こうして内水面交通網の発達により、奥東京湾の馬場小室山と流山の三輪野山、野田・松戸は安行3d式の地域、井野長割と鬼怒川に続く寺野東の前浦式のエリアが、そして直接海に面した加曽利貝塚などの千葉市のエリアと3つの文化圏が生じました。
 エリアが違えば、環状盛土遺構が似ているといっても、その内容には違いがあるのです。

 千葉市側の貝塚の人は、貝が採れなくなると、狩猟生活になり猪や猿を捕らえるようになり、骨塚を作るようになります。ただし犬は食べるのではなく、埋葬しているので家族のように扱っていたらしいとのこと。

 ここから、お話は、墓制と住居の構造から盛土遺構がなぜできるかということにうつります。

 桶川の高井東遺跡など後期には住居址を廃棄し廃屋墓にし、土を盛ってまた住居になります。
 秩父など石の多い地方では、敷石住居をつくり、これも加曽利B式のころ石棺墓をつくるが、そのあとしばらくして住居ができました。
 つまり、住居→廃屋墓→土を盛る→住居を作るという繰り返しでだんだん高くなっていきます。

 この顕著な例が長野県北村遺跡で、その時期が短いから高くはないのですが、馬場小室山は中期から晩期と続く長い間に結果として高くなってしまったわけです。
 そのキーワードとなるのが、柄鏡型と敷石住居の住居址です。

 ここで柄鏡型の住居址事例について、斎藤弘道氏が黒板を使って詳しく説明してくださいました。

 柄鏡形というのは、円形に鏡の柄のような長めの張り出し口がついた住居址で、中期の後半、加曽利E3式のころ始まるが、どこで出てきたかは謎です。
 発掘時のよい条件や、目の付け所が整っていないと見逃しやすいので、検出がむずかしいが、最近は柄鏡形ばかりという集落も見つかっています。

 中部・関東地方の山がちなところでは部分的に、あるいは全面に石が敷かれた柄鏡形の敷石住居が見つかることがあります。
 入り口の通路に埋甕を埋設している住居もあり、死産児や胎盤を入れて再生を願ったという説もありました。
 入り口は凹地や道の方を向くことが多いようです。

 加曽利E3式のころから、敷石住居のでてくる埼玉・群馬の北西部など山がちなところで、柄鏡型住居があらわれ、大宮・北総台地のような石がないところでも遅れるが土や木で代用した構造の柄鏡形の住居が現われてきます。

 これらの家を作るには、平らな面の基礎をつくるため盛土する基礎工事を必要です。(「馬場小室山第2遺跡」の「盛土」の現場を想像すればわかるでしょう。)

 住居だけが重なるだけではなく、住居の跡に墓を造り、整地してその上にまた住居をつくるということもあります。
 盛土遺構は生きている人の生活の場であっただけでなく、死んだ人の世界でもあり、ハレとケが共存していた可能性があります。

 馬蹄形の貝塚と、環状盛土遺構のかたちが似ているといっても、内部構造と機能は全く違います。
 環状盛土とちがって、捨て場であった貝塚は、最初は住居だったところが墓になることはあっても、そのあと住居にはならず、最後まで捨て場です。

 その後も、「大森貝塚」でモースの当時考えたことや、北海道の石倉貝塚などについて活発な問答が続き、6時過ぎに終了しました。