2005.2.23 By.ゆみ

16 井野長割遺跡へ-佐倉市で第3回研究会

もうひとつの環状盛土遺構・井野長割遺跡へ

井野長割遺跡の説明をききます
立っている所は、M4の盛土の上!


 12月の年末に産声を上げ、1月30日の小室山セミナーで弾みをつけた馬場小室山遺跡研究会は、2月20日、佐倉市の井野長割遺跡探訪を兼ねたワークショップを開きました。
 ちょうどその日、佐倉市の歴史民俗博物館で井野長割遺跡の企画展と講演会が開催されていることに合わせたイベントです。

 実は私にとっては、近くの佐倉市井野長割遺跡への興味が先で、その縁での馬場小室山遺跡との出会いでした。
 2004年9月に佐倉市井野でシンポジウムが開催され、関東の環状盛土縄文遺構がにわかに注目される中、さいたま市にも盛土遺構の馬場小室山遺跡があるとネットで知り、いつか訪ねてみたいと思っていたところ、そのシンポジウムの翌々日、その馬場小室山遺跡が調査終了の危機にあるという公開メールに接しました。
 井野長割遺跡でなじんでいた塚状のたかまりが連なる神秘的な風景、それに似た馬場小室山の縄文の森が失われるという事態は、本当に信じられなかったのです。

 関東の環状盛土遺構は、寺野東、三輪野山、三直遺跡などの大規模な発掘調査でその実態が明らかにされ、縄文社会の構造を探る重要な手がかりを与えてきました。
 しかし、縄文の盛土が今も可視的な景観として残されているのは、馬場小室山と、今回国指定史跡の答申がでた井野長割のふたつの遺跡だけです。
 北総の地での研究会開催は、このふたつの遺跡をめぐる相互の関心の中で実現しました。


M1とM5の間から中央窪地へ続くなだらかな道
この道の手前、南側の斜面では、縄文の道が見つかっています


小学校内の「井野っ子山」
第5次調査で住居跡一軒、ヤマトシジミの貝塚、
後期の土坑などが見つかりました

「縄文人が立ち去ったままの景観が今そこにある」

 20日、前日は終日氷雨の寒い一日でしたが、やはり!朝には雨も上がっています。
 ユーカリが丘に8台の車が集結、総勢二十数名を乗せて現地へ。
 井野小学校のご好意で構内に駐車すると、待ちかねたようにさっそくなだらかなマウンドの連なる東側の森に入り、盛土のひとつ「M(=マウンド)4」の頂点に立って周りを見渡しながら、T花氏に解説していただきました。

 東の谷に面し、5つの大きめの盛土がぐるりと160mほどの楕円状に連なり、その内側にもこぶが2つ、計7つのマウンドがあったとのこと。今もはっきりそれとわかるマウンドは5つ。高さは1〜2mぐらいです。
 「このM1の先で道の遺構が見つかったというのはあの南斜面」、「谷へ向かって埋め立てた形跡のあるのは東のこの斜面」、「西へ通じる道の遺構が発見されたのは、この鉄棒のあたり」など的確な説明で、概念図(印旛郡市文化財センターHP参照)のイメージが景観と重なってきます。
 
 この遺跡が発見されたのは、昭和44年(1969)井野小学校の施設整備にともなう工事でした。
 そのため、調査後は、西側のM5は体育館、M6は校舎、M7もその一部がプールになって、今はもう現状をとどめてはいません。
 東側の残された4つのマウンドのある森は、大規模な井野東区画整理事業の区域内にあり、その宅造工事に先立つ調査が平成10年(1998)より始まり、その過程で環状盛土遺構としての遺跡の重要性がわかってきたのです。
 
 見学会には、この遺跡の保存を数年前から訴えてきたという近くにお住まいのご婦人も見えられ、発行しているミニコミ誌を資料としていただきました。
 今回、国指定遺跡の答申がでた背景には、市教委や文化財センター職員の方々の奮闘とともに、市民の声の力もあったことをあらためて知りました。
 
 東の森から、小学校内の自然林「井野っ子山」を廻り、校庭内の遺構跡を見学していたころ、今回の見学会でご配慮くださった小学校の教頭先生が見えられ、なごやかに一同でご挨拶した後、また車に分乗し、考古学研究史上著名な江原台のふたつの遺跡(遠部台遺跡・曲輪ノ内貝塚)を経由して、歴博へと向かいました。


1939年大山柏、1999年明治大学の調査フィールドとなった遠部台遺跡へ寄る

曲輪ノ内遺跡の明治大学調査区
畑に削平されているが、ここも環状盛土遺構らしい

馬場小室山研究会第3回ワークショップ
歴博の休憩所にて

国立歴史民俗博物館にて

 正午をやや過ぎて、館の外にある休憩所で昼食後、馬場小室山遺跡研究会の第3回ワークショップを開きました。
 馬場小室山遺跡の成立と展開を理解するために、科学的な検証によりその背景を探っていこうという姿勢でスタートした研究会ですから、遺跡・遺物を見たり調査報告を聞く間のわずかな休憩時間も惜しむように、用意されたレジュメで勉強会をはじめました。

 今回のレクチャーでは、環境の変動(寒冷化)による海退現象について、縄文時代の関東地方の海岸線の変化を地図で見て、貝塚の分布がどこにあるかをまず把握し、内水面交通網の発達に注目しました。
 続いて、縄文人が何の魚を食べたか、その千葉市内印旛村内貝塚の遺物データから推定し、湾内の淡水化の状況 <マダイ(海水域)→クロダイ・スズキ(海水の一部が河口に進入)→ウナギ・ハゼ(汽水域)→コイ・フナ・ナマズ(淡水域)>を知ることができるかという課題に取り組みました。
 グラフ化された魚類遺物データ1 2から、食した魚の地域差などが一目瞭然にわかるように思えます。
 しかし、一方、クロダイ・スズキを食しているように見える石神台の発掘採集データに対し、同地点の遺物を丹念に水洗して得られたデータでは、マハゼ・ウナギが多く、小さな骨の見落としの多い発掘採集の人の目で見ただけのデータとは異なる結果が見てとれます。
 このような精度のよいデータは、土をふるいにかけるような時間と手間の調査で得られるものであり、残念ながら馬場小室山の拙速な調査では望むべくもないことでしょう。

 40分という短い時間の最後に、モースの「大森貝塚」の一節を読みました。
 貝塚が内陸にあることについて、隆起説で理解しようとしているものの、モースは海岸線の変化に気づいていました。
 その科学的な視点に学ぶことが、現在の考古学にも求められているようです。

れきはくプロムナードにて
 
調査報告スライドに映し出された井野長割の大土坑と埋納された土器
 1時半からは歴博講堂で、佐倉市教育委員会小倉和重氏の「井野長割遺跡の調査報告」と、国立歴史民俗博物館の西本豊弘氏の「井野長割遺跡の調査意義」という講演を聴講し、続いて佐倉市井野長割遺跡速報展を見学しました。

 調査報告では、馬場小室山でも注目された大土坑のスライドと、西本氏が井野長割遺跡について「縄文人が立ち去ったままの景観が今そこにある」と述べられたことが印象に残りました。
 まさに1月30日の「小室山セミナー」で鈴木正博氏が「現代の今にいたるまで全く手付かずだった」馬場小室山遺跡の特性を語ったのと同じ言葉でした。
 共に、開発で大きな痛手を受けているものの、このふたつの遺跡こそ、縄文晩期の景観そのものを未来に伝えるタイムカプセルだったのです。

参加者のHPへLINK⇒常陸古文化探求室から 「一考古学徒の思うところ(「2月20日」「井野長割遺跡で見つけた土器」)」

井野長割遺跡についてのHPへLINK
「千葉市の遺跡を歩く会」から 「空撮 井野長割遺跡」ほか
「財団法人 印旛郡市文化財センター」から 「佐倉市 井野長割遺跡」