2005.6.18 By.ゆみ

22.馬場小室山遺跡から何かが始まる!(2)


馬場小室山出土の「かわゆい」突起土偶
4.ワークショップ その2「馬場小室山遺跡の研究」

 「考古学実習入門」の後の、鈴木正博先生による「馬場小室山遺跡の研究」のはじめのテーマは、『@馬場小室山遺跡の「突起土偶」』についてです。

 「1号土塚(窪地北側の土堤)の東端から、かつて宅地化の際の発掘で出土したこの小さな愛らしい表情の土偶には、頭に一本角のような突起があります。

 なぜ馬場小室山のこの土偶が大事かというと、千葉県ででてくる土偶は大半は山形土偶、みみずく土偶で、堀之内から加曽利B2の直前までの土偶というのは少ない。
 北関東から福島の後期の前葉、堀之内1,2に伴うハート型土偶のいくつかを図にしましたが、ハート型の顔の輪郭の上に突起が出てます。

 柄鏡形敷石住居が終焉を迎える時期が、加曽利B1の時期で、ハート型土偶と、加曽利B2以降の山形土偶の間に位置づけられる土偶が北関東中心に、そしてこのさいたまの地でも見られるという関係を認識いただきたい。
 すなわち、水平堆積を中心にする塚状のマウンドを持つ馬場小室山遺跡ででてくる最初の土偶と、柄鏡形敷石住居址が発達する地域の土偶となぜか関係があるということであります。

 と、それは理屈ですが、非常にかわいいでしょう。素朴な顔して、目がユニークな土偶が、馬場小室山から出ているということは是非気に留めてください。また細かい話はいずれ時間があるときにします。」

 と、短い時間でしたが、ハート型土偶からの変化するとこのような突起が生まれるのか、柄鏡形住居とともに北関東の縄文後期の遺構との関連で語られていきました。

 鈴木先生から、続いて「A大宮台地の「窪地掘削」集落について」のお話。
 「馬場小室山の第4次調査の1号土塚の崖線のトレンチ断面図から、人為的な掘削が行われた可能性が見られるが、大宮台地でもこのような掘削を思わせるケースが見られます。
 そのケース@として、蓮田市の黒浜貝塚、Aとして同市の雅楽谷遺跡の調査報告を紹介します。
 @は「窪地掘削」が行われた集落遺跡、Aは「窪地掘削」と「環状盛土遺構」の相関が認められる集落遺跡です。
 いずれも、集落をつくる時に窪地を自ら作り出しているという可能性についての情報提供です。」


5.阿部芳郎先生がお見えになって

 講演の途中、市民フォーラム実行委員会の副委員長に就任いただく予定の阿部芳郎先生がお見えになり、一区切りついたところで、阿部先生から、馬場小室山遺跡についての感想をお話いただきました。

 明治大学教授の阿部先生は、2004年夏の初め、発掘調査前に来跡され、また9月調査終了期限の迫る中、学生や院生を伴って発掘調査支援に駆けつけ、また新聞に「国史跡級遺跡に最大の危機 −熱いまなざし注がれる さいたま市 馬場小室山」の署名記事を寄せられるなど、馬場小室山遺跡に心配りいただいている研究者のお一人です。

 「馬場小室山遺跡の発掘が始まる前、かなり丁寧に鈴木さんに案内をしていただきまして、まず自然の地形を実際に歩いて確認することが出来ました。
 初日に僕の日記に書きとめたのは、地表にぜんぜん土器が落ちていないということは、非常に重要なことだと思って今でも新鮮に覚えています。
 私たちの掘っていた曲輪ノ内貝塚は、江戸時代からの耕作、明治時代から近年に至るまで発掘が行なわれていて、地下の部分が壊されているわけですね。
 それに対して、馬場小室山遺跡というのは、これから掘るところを歩くと土器が落ちていないということで、これは本当にパックされている遺跡がこれからまさに陽の目を見るんだなということで期待をしていました。」

 残念ながら、期限の限られた発掘調査になり、阿部先生はSOSに応えて馬場小室山遺跡の緊急発掘にも学生さんともども参加されたわけです。
 阿部先生のご発言の続きです。


「僕らが残した記録が、いまはさいたま市にあるのですが、その中にはおそらくこれからの盛土遺構の研究を牽引するような様々な新しい所見が盛り込まれていますし、当然それまでさいたま市で調査された情報の中にもすばらしい成果がたくさん入っていると思います。」

6.洗った土器の観察と、『大森貝塚』の学習

 夕方近くなって、外に干してあった土器をしまう前に、阿部先生とともに、皆でくわしく土器を観察しました。
 それぞれ、お気に入りの関心のある土器を手にしながら、先生方に土器の型式を質問したり、考えたり。
 時のたつのも忘れそうな楽しい時間でしたが、ワークショップの続きもあり、5時半には、大田尭先生のお宅で、「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」第1回実行委員会の予定。
 土器の分類と整理、詳しい解説は次回とし、ダンボール箱2箱にしまいました。


阿部先生と一緒に土器の観察
 (これは昨年10月23日の採集土器です)

鈴木先生が手にとられた安行3c式のかけらには
何か秘密がありそう

阿部先生が目に留められてのはこれ⇒


口縁部の帯の下に張り瘤がある土器

埋文のプロの関心は、地味な「製塩土器」⇒

薄手で無紋、火にかけられて表面が剥落した製塩土器
どこの海岸の生産地から移動してきたのでしょう
 
 続いて、研究会で毎回恒例となったモース著『大森貝塚』の学習。
 今回は「−モースが導入した先史学の方法−」の副題で、筑波大学考古学専攻のS大学院生の講演です。

 「『くさらずに残った物だけから生活の歴史を組み立てていかなければならない』(『大森貝塚』P16)というモースの考え方は、遺物を丁寧に図示し、詳細な観察結果を付した報告の仕方にあらわれているが、この科学的な提示方法は、その後の陸平貝塚の報告などにも引きけ継がれました。

 しかし、大日本帝国の大陸進出と相俟って、日本考古学は方法論不在の日本人起源説に傾斜し、大正期に入ってから、新たな方法を輸入し発掘調査が行われるようになります。
 すなわち堆積した土層の層位による土器編年の作製で、イギリスのペトリから学んで帰国した浜田青陵らによる実践で、その後、それらに批判を与えつつ、1930年代山内清男による精緻な土器編年体系が組まれるようになりました。

 そして大森貝塚調査から120年たった今の先史考古学もなお、モースの科学的精神に基礎を置いているのです。」

 最後に、鈴木先生から聴いている皆に、「『大森貝塚』を読んで、どんな貝塚か絵が描けますか」と質問。
 そして「モースは、中の遺物について述べているが、どんな貝塚だったか、どんな調査をしたか説明していません。
 進化論のモースはモノしか語らないが、当時ヨーロッパでは、ピット・リバースという研究者がいて、もし日本に来ていたら測量図など今でいう考古学を行っていたかもしれません。
 モースの当時の優れた方法と、今はモースでは物足りないという側面を、今の考古学の水準から感じていただければと思います。」と付け加えられました。


7.大田尭先生とともに、「市民フォーラム」実行委員会が始動しました!

実行委員長の大田尭先生(左端)とともに


 大学院生の講演が終って、午前中の市民フォーラム準備会で事務局長を引きうけられた飯塚さんから、「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」実行委員会の主旨と組織などの案がワークショップ参加の皆さんにも提案されました。

 そして会場にいらした、阿部先生にも副委員長に就任いただくことを了承していただき、実行委員会委員長の大田尭先生のご自宅へ、事務局のメンバーとともに訪問。先生のお家の会議室で、本日の経過を説明しました。
 大田先生にはお願いしていた委員長就任も快諾いただき、こうして記念すべき第一回実行委員会会議が開催されたのです。
 東京大学名誉教授で、都留文科大学学長でもいらした大田尭先生は、87歳のご長寿でおいでですが、今もなお、教育問題や国際交流の分野などでご活躍でいらっしゃいます。

 この席で先生は、「馬場小室山遺跡の近くにいるものとして古跡を守っていくということ、僕もそのご趣旨にはまったく異論はありません」と、力強く励ましてくださりました。

 以下は続けて述べられた大田先生のお言葉です。
 
 「こんな殺伐とした世の中、市場経済、過剰市場経済の中で、何もかもが、人間までがばらばらになるという状態ですから、こうして皆さん、こういうあることを通じ、まったくかかわりのない方々がこういう集まりをお持ちになるということの意味というのは非常に大きいと思うのです。
 殺伐とした社会に、一つの交わりを、違った目的でそれぞれ集まって、本当に眼と眼、身体と身体を結び合わせるというような人間関係がものすごく今大事な時期だと思ってます。

 教育基本法の問題もあり、憲法の問題もあり、九条もありの中で、なにか少しづつでもお手伝いしてますので、またこの遺跡なんてとは思いますが、人類の有史の、歴史のはじまる前の段階というのは、始まったのちと同じくらいに重要なことだと、先生方に言ってきた言いだしっぺでもありますので、委員長をお引き受けしました。 」

 淡々と語られたお話にみんな感銘を受けました。
 大田先生のお宅を去るときは、もう初夏の太陽も沈み、目いっぱい学習し、行動したこの長い一日を振り返りつつ、懇親会でさらに盛り上がりました。
 次回は、7月3日の予定。ともに学ぶ市民の新しい連帯をつくるために、馬場小室山でまたお会いしましょう。