2005.7.24 馬場小室山遺跡研究会第8回ワークショップでの鈴木正博氏講演より

モースの『大森貝塚』に学ぶ(7)講演録

●前回までの視点
 @動物分類学から大森貝塚の土器へ接近すると?
 A貝塚のロケーションから何が言えるか?
 Bモースの多様な分析は何を目的としたものか?
 C近藤・佐原の名訳に隠れた自然科学的文章本来の妙味は?
  (1)(用語が違えば意味も違う!)
 DEモースが導入した先史学の方法(1)(2)

【目的】:戦後の日本先史考古学を科学的精神に則り再検証する!
【視点】:日本先史考古学の変革を成しえた科学的精神とは? 
  ★反省点★遺跡の調査は科学的精神に支えられているか?

◎今回の視点
F近藤・佐原の名訳に隠れた自然科学的文章本来の妙味は?
(2)(用語が違えば意味も違う!)

       −日本語訳としての「貝塚」とは本来何を指したものなのか?−
【承前】
 近藤・佐原の名訳で誰にでも分かり易い文章になっていますが、モースの方法を理解する上では問題となっている和訳があります。その問題は和訳部分に限ったことではなく、本質的には当時のアメリカとイギリスの遺跡に対する接近法に考古学の二極化過程を用語によって示した結果でもあります。
 前回は時間の関係で、前者については目次の英文と和文との対比で意訳の事実を確認しました。後者については、モースの『大森貝塚』を読み終わった時に、大森貝塚とはどのような形態を留めていた貝塚形状であるのか、イメージが湧きますか、と問題提起しました。そして、後者こそが型式学を除いた場合の、アメリカとイギリスの考古学の顕著な違いであることを簡単に紹介しました。
 今回は前回の問題提起を深耕すると共に、更に何故、所謂「環状盛土遺構」の研究会で『大森貝塚』を読む必要があるのか、加えて、大森貝塚の発見とその後の状況が弥生町貝塚と同様に何故位置の特定が困難であったかについても、盛土との関係で気に留めて頂きたいと思います。
 また、山内清男の文章を読む時にも、書かれている事実の分析以上に、読む側の解釈が先行してきた戦前戦中戦後の同じような陥穽が今日でも流布していますので、理系の文章を読む場合の注意点について触れたいと思います。

【貝塚と和訳した用語の種類】
 今日は『大森貝塚』の方法を議論する中で、特に貝塚研究者と所謂「環状盛土遺構」研究者にとって一番面白いところ、即ち、なぜ『大森貝塚』の「貝塚」という和訳にこだわったのか、という点を解説します。前回は目次だけからの問題提起でしたが、近藤・佐原編訳が貴重であるのは報告前後の関連資料が付加価値となっているからです。
 目次のみで無く、関連資料を含めて検討するならば、それは分類学の専門家であるモースが用語として分別している「シェル・ヒープshell heap:シェル・マウンド shell mound:キチン・ミドンkitchen midden」に対してなぜ訳語では区別しないのか、という素朴な疑問から端を発した話です。
 まず、そもそもモースの大森貝塚以来、貝塚をshell moundと呼ぶのが日本考古学では一般的になっているのですが、そもそも貝塚という用語には何を使用するのが正しいのかという議論があります。例えば、加曾利貝塚の報告を書かれた後藤和民さんは確か「貝塚ヒープ」という言葉を使っていたように記憶しています。

【『ネーチャー』第12巻第422号、1877年11月29日号での和訳】
 『ネイチャー』にモースが1877年に書いたものとして引用されている127ページ「日本における太古の人類の形跡」の第2段落に「まぎれもない大昔の塵棄場すなわち貝殻堆積(シェル・ヒープ)を発見し・・・」とあります。

【『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』第14巻、1879年1月での和訳】
 このシェル・ヒープという言葉は「貝殻堆積」とまず『ネーチャー』第12巻第422号で和訳されているのですが、『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』の141ページの最初の段落に、「初めて東京を訪れた際、私は汽車の窓からまぎれもない大昔の塵棄場、われわれのいう貝塚(シェル・ヒープ)を発見した。」と、シェル・ヒープを貝塚と和訳しています。

【シェル・ヒープshell heapのイメージ】
 シェル・マウンドというのが『大森貝塚』の特許みたいになってしまっているのですが、貝塚の概念としては、貝層として貝が塚状に堆積している状態が基本的にシェル・ヒープ、これは状態を表している用語で、直接貝殻堆積が見えている貝塚の状態をイメージすることが出来ます。
 同じ英語に2種類の和訳をあてるのは基本的にはおかしいのですが、掲載誌も異なっており、それにはそれなりに分かり易くしたいという意図が佐原さん、近藤さんにはあったのだと思います。
 このように日本語として分かり易くしたいという気持ちが、理科系のモースが使用した用語の和訳としてはだんだん画一化されて内容が無くなってしまうという仇となり、モースの説明している異なる貝塚のイメージが読者には伝わらなくなっていきます。

【『ネーチャー』第21巻第537号、1880年2月12日号での和訳】
  次に154ページ。ディキンズの「日本人の先史人類」ですが、2行目に「オーモリで調査した貝塚(シェル・マウンズ)に、デンマークの貝塚(キチン・ミドンズ)と同じくらいの古さを与えようとしているらしい。」とあります。
 一般的に英語で貝塚はこのキチン・ミドン、これが貝塚の一般的な英訳です。問題は、このシェル・ヒープも意味がありますし、キチン・ミドンにも、シェル・マウンドにもそれぞれに異なる形態を示しているという、貝塚の定義上の意味があるのです。
 それだけでなく、ディキンズの主張には4行先に「それは、完全に取り去られて今はない、と私は信じる。」とあり、実に大森貝塚存否問題にまで発展した不信感が横たわっているのである。こうした現場の状況が二つの碑となった所以である。このように地形測量や発掘区の断面図を作成しない点、が新大陸考古学を導入したモースの最大の欠陥であった。

【『大森貝塚』の目次から】
 何故、「貝塚」の意味にこだわったかというと、そもそもの発端は『大森貝塚』の英文目次にあります。
  @ The Shell Mounds of Omori,Japan ,Introductory.
  A General Character of the Omori Mounds.
  B Special Characteristics of the Omori Deposits.

 最初は大森貝塚において実践した先史学人類学の方法などを纏めた手引きですが、問題は次とその次です。目次で何と和訳したかというと、@は「日本大森貝塚―はしがき―」、次Aが「大森貝塚の一般的特徴」、Bは「大森貝塚の特徴」です。
 「大森貝塚の一般的特徴」と「大森貝塚の特徴」とでは「貝塚」の内容としては何がちがうのかということを見ていこうと思います。

【「大森貝塚の一般的特徴」(General Character of the Omori Mounds)】
 20ページから23ぺージにかけての、A「大森貝塚の一般的特徴」というのは、基本的には大森貝塚がどういうところに位置し、立地しているのか、それについて書かれている内容です。ですから、今日でいう海進・海退の議論、このときは土地の隆起の話で、大森貝塚のような立地は実は日本だけじゃなくて合衆国にも西洋にもありますよ、という議論です。

【「大森貝塚の特徴」(Special Characteristics of the Omori Deposits)】
 その次が、B「大森貝塚の特徴」の「デポ」の話というのは、大森貝塚の埋蔵物、即ち、出土遺物なのです。このデポは日本語としても使われていますので、その意味は容易にわかると思います。

【佐原さんと近藤さんによるコメントに問題が潜んでいた!】
 モースは地形上の特徴と出土遺物の特徴は異なる分野であり、章立てを分けるのが常識であるにもかかわらず、佐原さんと近藤さんは何をコメントしたかといいますと、202ページの後から2つ目の段落、「大森貝塚の記述は・・・・」というところです。
 「「大森貝塚の一般的特徴」と「大森貝塚の特徴」の二節にわけて書きはじめている。」と書いていますが、それは前述しましたような理由で当然でしょうね。続く「ただし」から以下に佐原さんと近藤さんの重要なコメントが入っています。
 「実際には世界の貝塚に共通する特徴の記述は「大森貝塚の特徴」の前半にまでおよんでいる。」という文章で「実際には」とありますから、『大森貝塚』におけるモースの章立てを明らかに疑っています。
 それは和訳の「貝塚」に問題があったのです。モースの章立てがおかしいわけではないのです。大森貝塚の地形と立地はと言ったときは、「一般的特徴」の中で議論しているからこれは世界の貝塚の地形と立地とにおける比較が成立します。また、大森貝塚の遺物の特徴について議論しているときも、これも世界の貝塚の遺物との比較が成立します。
 それにも拘らず、「ただし、実際には世界の貝塚に共通する特徴の記述は「大森貝塚の特徴」の前半にまでおよんでいる。」と述べて、筋立てを考えるのであれば、やはり大森貝塚を世界と比較するのに、章を変えてまで比較を続けるような構成はおかしい、世界の比較は、世界の比較で1章にすべきである、とそういうふうに佐原・近藤さんは言っているわけです。

【分かり易い和訳とは?】
 つまり「大森貝塚の特徴」と、「大森貝塚の一般的特徴」というように紛らわしい和訳をしたがために、何故、世界との比較が1章に収まらずに2章にまで続いてしまうのですか、という疑問に和訳からは当然のように至ります。
 デポについても、マウンドについても、それぞれに別な意味があるのに、佐原さんと近藤さんは「貝塚」という訳を与えてしまったのです。これを常識ある研究者であればどうするかというと、やはり「一般的特徴」は「地形と立地の特徴」ですから、それを重視します。
 あくまで地形と立地の特徴であって、Aの「general」とBの「special」に韻を踏んでいるように思い、世界との共通性はどちらかで対応すべき性質として纏めてしまうのが分かり易いと指摘するのですが、「general」という意味の、モースにとっての真相は、外から監察できる状態の特徴を指しています。そして、「special」という意味の、モースにとっての真相は、発掘調査をした結果であり、大森貝塚「出土遺物の特徴」なのです。
 ですから地形と立地の特徴も世界と比較可能ですし、出土遺物も世界と比較可能です。

【易しい文章か、正確な文章か、読み手によって価値は異なる】
 『大森貝塚』で和訳されている「貝塚」という日本語の内容は、かならずしもモースの意図した内容にはなっていません。その点は考古学専攻生にとってはとても危険で、文章として読むには問題ないような日本語になっていますが、その中身は大森貝塚として皆さんがイメージした内容ではないということです。ですから、モースが記述した本当の意味を知りたいという知的好奇心が強くなりましたら、皆さんには原典に当たって欲しい。理科系の文章は、文体は素直で、内容も非常に単純な文章です。それをきれいな日本語にしてしまうと非常に内容が伴わずに危ないという例です。

【大森貝塚のマウンドとは?】
 さて、マウンドとかデポジットとか使用していますが、シェル・マウンドとはどのような状態をイメージしますか。貝層は見えているのでしょうか。
 実は大森貝塚というのは、地表面からは貝層が見えない状態です。ですからマウンドで、上から貝層が見えている状態ですとシェル・ヒープなのです。
 貝塚の定義は非常に難しいのですが、前回のお話の中で『大森貝塚』の唯一の欠点は、大森貝塚の具体的な形態がイメージとしてわかない記述である、といいました。でもある程度はわかるようにしてくれているんです。
 先ほどの『ネイチャー』、モースが1877年に書いたものとして引用されている「日本における太古の人類の形跡」の128ページで大森貝塚の説明をしているのです。「貝塚は約200フィートの幅をもち、厚さは、1フィートから5,6フィートと変化があり、上には少なくとも厚さ3フィートの土が積もっている。」
 つまり、1フィートは30センチですから3フィートってすごい土層ですね。そのあとで大森貝塚をモースが発掘調査して埋め戻した後、見つけようと思っても見つからなかった。そんなものはないと言ったディキンズという人は、日本にも滞在していたようですが、新聞記事にそのような話を見つけたようです。
 実は、「上には少なくとも厚さ3フィートの土が積もっている。」という点がポイントになっていて、シェル・マウンドといった場合、頭の中で描いている状態は、土だけがこんもりとしている。しかし、モースは貝塚の断面を発見して、貝層を見つけ、だから貝塚だと分かった訳ですね。ここがミソなんです。

【マウンドは自然堆積か?】
 それでは、土層は一体何かということの議論もしているのですね。隣の129ページ、ここでモースは悩んでいるのです。後ろから3行目の下、「上にひじょうに厚く堆積している等々、この貝塚がきわめて古いことを信ずるに足る理由がある。」
 つまり、大森貝塚が古いのだというために、最初は野蛮な人種の食人の風習とか、いろいろな証拠を見出してくるのですが、貝塚の上に3フィートもたまっている土層というのはそれだけ年月が経ってる証拠だ、という風にモースは解釈をしていたのです。

【マウンドは人為堆積の風習か?】
 しかしながら、この見解はあとで翻します。それがマウンドの面白いところで、どこで翻したかというと、これがいよいよ人為的なものじゃないかという、『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』142ページの議論につながる。
 発行は1879年1月だから、出版的にはこちらの方が古い。正式の報告書が出る前に、モースの判断がいろいろと揺れ動いているのが分かり、面白いですね。
 142ページの4行目「その上の土層の厚さも、2フィートから5フィート近くまで、とまちまちである。貝層の上にこんなに厚く土が堆積しているのは、人為的に運ばれたのかも知れない。日本人が、たんねんに土地をならしたり、窪地を埋めたりすることは、よく知られていることだからである。」
 ですから、シェル・マウンドのマウンドの意味というのは、大森貝塚については古さを強調したいので、貝塚の形成が終わってから非常に長い間に土が堆積したのをそんな風によんだという理解からはじまりましたが、日本の風習を知るに及んで、日本人は庭つくりや畑をつくるのが大好きですから、できるだけ人為的な景観をつくろうとする、そのことをよく分かっているのですね。

【デポには貝層と土層の区別は無かった!?】
 デポの状態についてのイメージというのはこれも曲者で、遺物については形態学的な観察が鋭いにも拘らず、貝層から出土した土器なのか、あるいは土層から出ているのかが、実は明確ではないのです。基本的には土層からも出ているはずで、山内清男の考古学ならば層位による区分を徹底するのですが、そういうことを当時はアバウトで、まさに遺物が包含しているところがデポで、貝層なのか土層なのかはわからない。

【貝層の上に堆積している土層の成因】
 ですから、大森貝塚の土器の分類をしているときに、貝層がどの時期まであるのか、という議論が出ました。土器は安行3d式までは検出されているのですが、骨角器等がでてくる場合や明らかに貝層が形成されたあとの包含層もあり、そういう意味で貝塚の貝層の上の堆積層をどのように考えるべきかという問題が、モースの大森貝塚に関する関連著作の中で議論されているということです。
 佐原さんと近藤さんは恐らく学生に下訳させて日本語に直しているような印象を受けるのですが、できればきちんと読んで頂きたかったというのが、正直な感想です。そのような意味で『大森貝塚』というのは、報告書には出てきませんが、所謂「環状盛土遺構」で問題になっているような盛土として貝塚から問題提起がなされた、学史的な遺跡として、モースが悩んだ形跡に注目したいと思います。

【『大森貝塚』におけるマウンドとデポなどの使い分けの事実確認】
 シェル・マウンドを「貝塚」と和訳し、デポも同様に「貝塚」と和訳すると、内容が異なっているのに「貝塚」として一緒ですので、伝わるのは我々が思い浮かべるそれぞれの貝塚のことです。モースは一応理系の人間ですので、使っている用語を、明らかにその用語と違う用語を使う場合には、意味を分けて使っています。貝塚を本当に研究しようとする場合は、ぜひ『大森貝塚』の原典にあたって見てください。面白い発見ができます。

【今日学ぶべきはモースだけにあらず!】
 私がここで一番いいたかったのは、目次の構成がいかに重要かということです。目次の構成に近藤さんと佐原さんがコメントした内容が契機となり、英文に眼を通したのですが、そのことがこれまで述べてきたような文系と理系の作法の違いとなってたようで、少々ショックでした。
 モースの場合には、実態に合わせて用語を違えていますので、英文で読んでるとモースが何を言ってるのか、ある程度想像できるのですが、和訳ではその違いを説明せずに同じ「貝塚」ということにしたために、モースが弁別しているところを共有できなくなった。
そのために本当は遺跡や遺構などの平面図や断面図という実測図が必要なのです。これをモースが大森貝塚の調査で取り入れてくれたならば、モースが何を見ていたのかよくわかったのですが、そのころのアメリカはあくまでも「モノ」の研究が中心です。
人類の発達史として集落研究を行おうとするには、新大陸のような先住民意識の強い土地柄では無理で、やはりヨーロッパ大陸で発達しています。
 代表的な人物に、やはりモースと同じ1800年代に活躍したピット・リバースがおります。遺跡を面で掘ってきちんと集落や遺構の平面図や断面図を作成しており、焼土やピットで住居址の復元も行っている。19世紀代のヨーロッパでは既にそういう技術が確立していて、1フィート30センチ単位のコンタなど非常に精密な実測図を描いています。このような分析的な仕事は編年が苦手なチャイルドには評価が低く、極めて矮小化されていますが、今日の考古学の基礎を形成した点ではチャイルド以上の業績だと思います。
 やはり進化論以後の科学的な方法の発達というのは凄まじく、それぞれの地域において独自に創造的に発展してきました。
戦後の日本考古学が2000年にその脆弱性を暴露しました。戦後のあの勢いはにせものであり、抜本的な見直しが必至ですが、そのためにはモースをはじめとする分析的で科学的な方法を自らが再検証し、どこまでが確実なデータと方法であるのか、共有する必要があります。それが戦前の研究を本格的に勉強しなければならない今日的な価値だと思います。 

「さわらび通信」管理人でテープ起こしした内容を、鈴木正博氏に、丁寧に監修いただきました。
著作権は鈴木正博氏にありますので、引用の際は、鈴木正博氏講演録「モースの『大森貝塚』に学ぶ(7)」 2005.7.24 馬場小室山遺跡研究会第8回ワークショップより]と明記してください