2004.12.29 By.ゆみ

13 馬場小室山遺跡研究会スタート!

T 遺跡の現状と、環状盛土遺構の全貌を見る

 2004年暮れも押し迫った12月26日ごろ、「馬場小室山遺跡研究会」の記念すべき第1回ワークショップが行われました。

 実はその数日前、私を入れて3名で、進行している宅造工事の視察と浦和博物館見学のための現地訪問の予定を鈴木正博先生にメールしたところ、「せっかく来られるなら、土器の吟味を含め勉強会をしましょう」ということとなり、なんと23日の夜中、そのプログラムが決まりました。

 メールで皆様にお知らせできる日にちは2日間! 
 でも常日頃、馬場小室山に心を寄せて下さっている方々から、待ってましたとばかり、参加の連絡が相次ぎ、待ち合わせ場所には、その参加連絡の時間的余裕もなかった方々も含め、十数人が集まっていました。

 鈴木先生ご夫妻、地元の飯塚ご夫妻、茨城県立歴史館の斉藤先生、自治体の専門家、大学院生、「馬場小室山遺跡・緊急特設ページ」HPオーナーのあるけ〜さんなど20名が小室神社入り口の旧家の作業場に勢揃いです。

 はじめに保存運動を行ってこられた飯塚邦明さんのお話を伺いました。

 馬場小室山遺跡と向き合って、2003年の競売時点から地元で署名活動や陳情を続けてこられた代表の飯塚さん。
 里山として慣れ親しんできた緑の森が売られ、無残につぶされていく過程を見守ってきたその経験と思い、そのお話は、初めて参加された方々にもジンと来るものがありました。

師走の午後の日差しの中、旧家の景観観察からスタート

「今いる南側の道路の地点も、遺跡の範囲ですよ」

西側はコンクリートの擁壁 この奥に未調査の盛土がある

北側の分譲地の入り口 舌状台地の先端はすっかり地形が変わりました

     北側の残された盛土へと進みます     

飯塚さん手作りの説明板

最も傾斜が確認しやすい北側の堤状の盛土を見ます
 
 この「馬場小室山遺跡研究会」は、10月7日に発信されたさいたま市教育委員会あての要望書にも明記されているように「文化的遺産価値の情報公開」をめざして鈴木先生が常々発足を準備してこられた研究会。

 さすが配られた資料も、最新の知見による貴重な図面や縄文遺跡の関する重要な情報が満載の内容です。
 その資料が配られ、鈴木先生の遺跡についての概略が話された後、いよいよ現地見学。

 南側の旧家のたたずまいを見ながら、遺跡の西側に回ると、コンクリートの擁壁がそそり立ち、宅地造成工事は急ピッチで進んでいます。

 「三室の杜」という分譲地名の販売広告が掲げられていますが、参加者からは「杜を壊して売るのに変な名前」とブーイング。
 ただ見取り図つきでしたので、工事後の全貌がよくわかります。
 その図によれば、未調査の南側境界の6軒分は、盛土遺構上に薄く土盛りして分譲されるもよう。

 遺跡保全へ向けての運動の成果かどうかは不明ですが、当初工事関係者からの聞き取りで予想していた台地全部の大幅な土取による造成という最悪の事態は避けられたようです。


←が北方向  
失われた自然林と遺跡の価格は
お金で判断すると・・・宅地が全部売れて4億円?
(国の売値はその3/4ぐらいだったらしい

左の図の南側のJKLの宅地が未調査の盛土部分
かろうじて土取は免れているが、ここを買った人は
地下2mの厚さの遺物包含層の上に住むことになる


 中学校敷地に面した市有地内の北側盛土遺構を眺め、東側の住宅街を抜け一周し、小室社から環状盛土遺構を踏破します。

 縄文の「環状盛土」は、中世城郭址の土塁や古墳の高まりに比べると比較的緩やかな起伏ですので、眺めるというより歩いてその傾斜を確認すること重要で、何度か歩いて、遺構の全貌が感じられてきました。(次ページにつづく)

やはり小室社の存在は神秘的

中央窪地はいつも探検隊の気分にさせてくれます

窪地から北側の盛土の傾斜を観察

北側盛土の上から低地(中学校)へ下がる傾斜

西の盛土遺構の様子 
右のコンクリート内がJKLの宅地

左斜面が、残された盛土遺構の南側部分

KLの宅地表面には、土器片がごろごろしている
造成後、家屋の建設時にどうなるのだろう

西の盛土遺構の傾斜がよくわかる



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