2005.1.8up  1.31更新  By.ゆみ

14 最前線の視点から学ぶ馬場小室山遺跡研究会 

 

初めて知る縄文土器の形式の講義に、皆興味津々!
U 出土土器の吟味

 遺跡を一回りして、元の作業場に戻って、馬場小室山遺跡の「調査未了」地区から救出・保護した遺物の吟味鑑定を行いました。
 「調査未了」ということがどういうことなのかという現実を理解し、同時に「土器型式」について、専門家にその見方や時代的な特徴を丁寧に説明していただき、私たちの知見を深めようという「実習」です。

 保護した土器は、10月16日〜19日に未調査地区に重機が入って木の根を除去、整地して土をかき回し、20日の台風で土が流された後、21〜23日に工事現場で拾い集めたものと、12月5日(台風の影響)と12月12日にも大量に発見したものです。

 証拠保全のため、泥がついたままですので、見づらかったのですが、複雑で美しい紋様の土器片は、縄文中期から晩期まで各型式が豊富にそろっています。

 関東の各形式が一目瞭然なのもこの遺跡の特徴で、中期〜後期の掘之内2式を斉藤弘道先生が、後期の加曽利B式〜安行2式と、晩期の安行3のa〜d式を鈴木加津子先生が担当し、その見方を手ほどきくださいました。


波状口縁が美しい深鉢の大きな土器片 
中期・加曽利ET式


土器の破片に切り込みを入れ
魚網の錘に再利用した「土器片錘」 

小型の鉢の口縁部の突起
後期・掘之内式

後期・加曽利B2式の土器片

波状口縁の土器片、沈線のみの紋様
晩期中葉・安行3c式

立体的な彫りの土器片と口縁突起

晩期・安行3d式

網代の格子目がついた土器底部
後期・加曽利B2式?

真っ黒な炭化物?の詰まった晩期土器底部

たたき石などの石器もあります
土器片はまだまだたくさんあって、覚えきれません

発見した状態のまま保護されています。
 

日が暮れるころ、近くの学習塾へと向かいました。


小室山の周りには
まだこんな田園風景が残っています

 V 縄文研究最前線の勉強会


 年末の早い夕暮れが迫る中、野外の活動を終了し、場所をお借りした学習塾の教室に移して、「縄文時代の研究最前線」というテーマで勉強会が開かれました。

 「馬場小室山遺跡の理解のために最先端の知識を提供する」という目的で、斉藤弘道先生が「縄文時代中期という時代」について、鈴木正博先生が「『盛土遺構』研究最前線」についてお話くださる贅沢な講演会です。

 鈴木先生のお話は、「考古学は何を見ようとするのか、その気持ちがないと見えてこない。調査は、目があれば見えるというものではありません。何を見つけようとするか、学術調査でも、狭い範囲の調査であっても、学問的課題を常に念頭において見抜く力を養うことが肝心です。」という言葉から始まりました。
 (以下は、メモから印象に残った講義の一部ですので、講演録ではありません)


☆「『盛土遺構』研究最前線」T

 国立歴博の設楽博己氏(現・駒沢大)らの研究成果である「縄文時代の遺跡数と竪穴住居数の変動」のグラフ(「再葬の背景」)から、遺跡数は前期、中期、後期のそれぞれの終わりに大きな減少が見られ、特に中期と後期の境は、縄文から弥生の変容に匹敵するような時代の変化と、人口の増減があったと推定されるそうです。
 
 縄文後期は掘之内T式をピークに、遺跡が多数あっても竪穴住居数が急減してしまう。それは盛土してその上に家を建てるようになったからと推定されます。
 なぜなら、これまでの調査ではローム層まで掘り下げてローム上に残された柱穴や炉跡で住居と判断してきた。この方法では、黒色土の盛土に残された後期以降の住居跡はわからないからです。

 馬場小室山遺跡は、保存状態が極めて良く、薄い表土の下はすぐに晩期の包含層で、安行3c、3d式の大形破片が出土します。
 晩期の塚状盛土の縁には、柱穴のある大きな土坑があり、土器が埋納されています。
 小室山での最古の住居は、中期の勝坂式土器のころからで、次は、加曽利ET〜EUの住居が多い。竪穴の建物の耐久性は10〜15年で、ほかへ建てる場合もあるが、特定の場所、つまり前の竪穴住居の近くに造るらしく、また重複した住居跡がみられます。
 
 竪穴住居以外に、掘立柱の建物跡も中期中頃の他の遺跡から見つかっており、倉庫を兼ねた家の可能性もあります。
 縄文中期は土器の種類も多く、その内容も豊富です。

 
☆「縄文時代中期という時代」

 ここで、茨城県立歴史館の斉藤先生から、「縄文時代中期という時代」という講義をお聞きしました。

 馬場小室山の中期の土器について、初めのころの勝坂式は、粘土ひもで区画した中に沈線や三角の切り込みなどで紋様を入れ、 粘土ひもも曲線的な、たとえば蛙のようないろいろな模様を描きます。
 沈線と縄文が重なることはありません。
 
 加曾利式E式では、縄文や撚糸文を地紋に付け、その上に粘土ひもと沈線の模様をつけます。
 沈線や縄文を磨いて消す「磨消縄文」という技法も使われますが、加曾利式の後半からは、東北の隆線の技法が入って、粘土ひもはだんだん細くなり、中期末の加曾利は西日本(三重・滋賀)の影響を受けるなど地方の土器も入ってきます。

 ここで、富山県文化財センターで開催された北陸や信濃・東北の縄文文化に関する特別企画展のカラー刷りのパンフレットを見ながら、華麗な縄文土器や珍しい石器について解説していただきました。
 ちょうど国立科学博物館で「翡翠展」が話題をよんでいるおりでもあり、これを意識してまずは富山県のヒスイの玉作りのムラ「境A遺跡」の遺物の写真に注目します。

 さまざまな玉類のほか大珠もあるヒスイは、「硬玉」の別名をもち、それを磨く技術と労力はたいへんなものだったそうです。
 茨城県大宮町の坪井上遺跡からヒスイの大珠8点が出土していますが、小室山出土の「の」字型の石器も注目です。

 そのほか、おむすびのような三角石器(土製品もある)、Y字型の三脚石器など珍しい形の石器が、境A遺跡にも、また広く東日本にもみられます。
 富山県に多い「玉抱き三叉文」という彫刻が施された大型石棒も、取手市西方貝塚から出土し、これらのことから、広範囲な交流があったことがわかります。
 土器の要素も広範囲に、北陸などからの影響がみられ、中期末からは東北南部からの広がりが増してきます。

 そのほか、人面や動物の装飾のある長野の「勝坂式土器」や、土偶などの写真を参考に、縄文中期の精神世界について、考えました。


☆「『盛土遺構』研究最前線」U

 時間を忘れるほどの熱のこもった斉藤先生のお話に続き、本日の核心ともいえる『盛土遺構』について、再度、鈴木先生から、お話いただきました。
 レジュメに「江原英さんと阿部芳郎さんの研究に導かれながら、貝塚研究の新しい視点も加え、馬場小室山遺跡の重要性を確認しつつ、縄文時代後晩期の集落について考えます」と記されている内容です。

 「盛土遺構」という言葉は、例えば三内丸山遺跡でも注目されたが、それは土器を含む「捨て場」であって、今注目されているのは「環状盛土遺構」。これは中央窪地の周りに土堤や塚のある「集落」ともいうべき遺構で、単なる「盛土遺構」とは根本的にちがいます。

 中央窪地には遺物包含層はなく、地山のローム層で、中にはモニュメントのような大石や石組みの遺構がある場合もあります。
 ポイントは、盛土を形成する土をどこから持ってきたかということ。
 ここで、三室中学校ができる以前の旧地形を補った「概念図」で北斜面の遺跡の地形をみると、馬場小室山の場合は、この北斜面から土取りした可能性があります。

 宮崎県の本野原遺跡では、縄文後期に、中央を土木工事で掘削した跡に集落の形成が確認されています。
 千葉県の環状盛土遺構の井野長割遺跡では谷側に埋め立てをしていますが、花輪貝塚のように斜面に貝を捨てるというだけでなく、貝以外も捨てて谷が埋まっていくということ、また園生貝塚のようにそれが塚状になることは、ありえることです。

 大きな集落は、同一地点においては層位的に中期と後期晩期に継続性がなく、千葉市の貝塚群のようにそれぞれ違う場所に作られることが多いのですが、馬場小室山では、中期の集落を埋め立ててその上に後期から晩期まで継続して集落を作っているということに大きな特徴があります。

 「環状盛土遺構」は、小山市の寺野東遺跡が注目されましたが、それ以外にも流山市の三輪野山貝塚、佐倉市の井野長割遺跡、蓮田市の雅楽谷遺跡、川口市の石神貝塚などがあり、いずれも中央窪地を馬蹄形や環状に土堤や塚が取り巻く集落で、貝塚集落と盛土の集落には景観としては大きな差はなく、当たり前の伝統的な集落形態であったのです。
 
  馬場小室山遺跡は、掘らなくてもその実態がわかるという稀有な遺跡でした。
 縄文晩期終焉とともにその後の歴史において改変が行われなかったいう点でその残され方はすばらしく、いいデータが期待できました。
 今回の宅造工事で失ったものは大きいが、盛土を作った土はどこから持ってきたのかなど興味深い集落形成上の課題を、今後、これまで調査経過を活用して共に考えていきましょう。
 馬場小室山遺跡は考古学の最前線にあるのです。


馬場小室山遺跡出土 人面画付土器の拓本

W 第1回ワークショップを終わって

 最新の情報と視点で語られる講演を熱心に聴講しているうち午後6時を過ぎて、もう外は真っ暗。初めてお会いする参加者の自己紹介を簡単にして、充実した第1回ワークショップを終了しました。
 バスで東浦和駅に出てから、さらに半数の方が残り、初めての懇親会も和やかに行われました。

 遺跡保存の思いで集まったワークショップでしたが、第1回目から最新の縄文考古学研究の核心に触れる内容で、今後の研究会の発展も期待できるスタートでした。

 鈴木正博先生、鈴木加津子先生、斉藤弘道先生、飯塚様ほかの皆様、ありがとうございました。
            

(謝意:本ページの内容は鈴木正博先生に監修いただき、1/31更新しました。また文中、勉強会の画像はHP「ばんばおむろやま」にリンクしています)