2013.9.16
By さわらびY(ゆみ

62-3 海と山と人々が語る自然と文化、そして震災復興への新たな一歩

第2回「山田湾まるごとスクール」旅の記録-3(第2日目 午後)

T 8月31日PM 大浦の畠中遺跡へ

 昼食後、7月に発掘調査が終わったばかりの、船越半島大浦地区の畠中遺跡へ行きました。
 高台の大浦小学校に隣接した遺跡で、大浦の避難路を作るための緊急調査でした。

 遺跡の南側は神社のある森、北側は畑で、小学校よりの東部分に、縄文晩期の住居跡と、古代の製鉄に関連する炭窯などのの遺跡が重複しています。

 山田湾を望む西側斜面(右写真)は、縄文後期の土器捨て場になって、ここから土器・石器、土偶やヒスイのペンダントなども検出しています。

東側 溝状の遺構は古代の製鉄遺構
(山田史談会の川端会長もお出でになりました)


南側中央 手前は古代の遺構、
奥は縄文晩期のピットが多い



U 大浦の仮設住宅にてお話を拝聴

 大浦地区(小谷鳥を含む)の家屋は、355軒の内、津波で3割を超す133軒が全半壊し、被災された方の多くは狭い仮設住宅での生活を余儀なくされています。

 畠中遺跡のすぐ近く、船越地区の大浦仮設住宅談話室で、今回の津波で被災された山田史談会会長の川端弘行さまほか仮設住宅にお住いの皆様にお集まりいただき、貴重なお話しをしていただきました。

 話題は、大浦の歴史と生業、そして仮設生活について。最後に、「差支えなかったらお聞かせください」という問いに、被災された体験などもお話いただきました。

     
大浦小学校下の大浦仮設住宅(46戸)

談話室で皆様がお待ちでした。
    
「大浦の歴史なら、川端先生」という皆様の声に、川端会長が資料を手に丁寧に教えてくださいました。

盛んだった民俗信仰=大浦八竜王の盆送り念仏

イルカ漁も盛んだった
    
ウニ漁のやり方 「ウニは、箱メガネとタモ網でこのように採ります」「柄は継ぎ足して数m以上になる」



談話室でのお話の要点 1 大浦の歴史と文化について

・船越半島の大浦は、国道45号線から離れた奥地だが、山田の町へは湖のような山田湾を舟で自由に行き来していた。
平成9年にバス道ができるまでは、巡航船が生活の足であるとともに、船内は皆一つになるコミュニケーションの場であった。
テンマ船に乗り合わせることよくあり、男は櫓をこぎ、女は駄賃を払う。そのお金で男衆は仕事の後、町で飲んで帰れた。 

イルカの追込み漁が大正時代まで盛んで、5800頭も捕った時もあった。分け前は、全軒の全家族の頭数単位で、それが漁村の典型。学校もイルカの代金で創った。

・寛永20年(1643)、オランダ船が大浦に着船した。船長・船員は江戸送りになって後、長崎からオランダへ帰された。他にもフランスなど外国の船が入ってくるのも珍しくなかった。明治の初頭、ハリスト教会は、盛岡・水沢に次いで3番目に山田に建てられた

・旧幕脱走艦「回天」と「高雄」が 明治2年3月24日に山田湾に入港した。宮古海戦の前日だった。

・明治4年、イギリス艦隊「シルビア」号の艦長が山田湾の貝と海藻を採取し、大英博物館のスミス氏が研究。新種として「ギブラヤマダナスミスガイ」と学名を付けた。後に山田町の川瀬一郎氏がこれを探して、国立科学博物館で鑑定、同館の波辺博士が「ヤマダ・シタタミ貝」と命名され、『続原色日本貝類図鑑』に掲載された。

・大浦と山田は海路での交通がよく、江戸通いの七百石船が往来、江戸文化も直に入ってきた。虎舞の所作も、江戸通いの船でもたらされた所作で、45号線沿いの町とは違う。

・元禄15年(1702)、智芳秀全という相模小田原に生まれの旅の僧も大浦に来て、苦行しここで入定、秀全堂に祀られている。

・神社のお祭りは、霞露嶽神社と、荒神社。 荒神社は、「正一位荒神大明神」の神宣を、天保15年に卜部家から貰っている。

・アワビ・ホタテ・カキの漁が盛んで、寛文12年の古文書によると、大アワビを採るため、5月半〜9月半に「かつき」10人を雇い入れている。「かつき」とは潜り手のこと。海女は「かつきめ」といった。

・ウニは、箱メガネで見て、タモ網で採る。潜るのは、久慈の方から雇う「かつき」で、山田湾では潜る漁師はいなかった。メガネのガラスはお宝だった。その前は、植物油を口に含ませて水面に撒き、なぎを作って見えるようにしたという。天然カキや昆布、わかめも採れる。

「遠野物語」106話で「海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。・・」とあるが、明治11年、蜃気楼の目撃談が『日進新聞』7月31号に詳しく載った。実際ときどきよく見えるとのこと。




郷土史の資料は残った!

体験談の「流された車」

「仮設の生活を見て」とのお申し出に甘えて。


談話室でのお話の要点 2 被災の体験談

・明治29年の津波の時、3歳だった方のお話(伝聞?)では、当時、杉皮で葺いて石を載せた屋根から、石が落ちてきた思い出が残っていたとのこと。当時は堤防もなかった。

・今回の3.11の津波は、静かに堤防に上がってきて、ナイヤガラの滝のようにあふれて内側に流れてきた。テレビで映される津波が襲ってくる映像とは違う。

・避難中、黒い水に2度も沈み、車がやっと高い樹に引っかかって、九死に一生を得る体験をした。

・小谷鳥では、避難所の小谷鳥公民館が流されて、避難していた住民16人中10人が亡くなった。

・被災後、避難所や親せきの家に住んで、2011年6月1日にここの仮設住宅に入居した。2年間の予定とのことだが、2年では難しいでしょう。

・入居後、体を悪くして亡くなった方もおられる。

・仮設住宅の欠点は、人声よりも戸の開け閉めの音がとても大きく響くこと。


お話をお聴きして

 川端先生をはじめ皆さまが、旅の私たちを温かく迎えてくださり、感動の2時間でした。お話だけでなく、実際に生活している仮設のお部屋もご案内くださいました。

 御身内を亡くされた方もおられ、また(被災していない家の大きさから見ても)これまでゆったりしたお屋敷で生活されていらした方々が、1DKか2Kの狭い仮設住宅でお暮しになるのは、本当に大変なことと思います。

 大浦地区の住民の生業は、ほとんどが漁業収入ですが、ご自分たちで食べるお米と野菜は自給されていて、ほとんどの水田が浸水し、買う生活になっています。

 それでも、皆さんあふれるばかりの笑顔で対応してくださり、カキの再養殖もようやく軌道に乗った様子で、復興に向けて前向きでお暮らしでした。

 「次に来られたときは、ごちそう作って待っていますから、一日いてください」と、ちょっとナイーブになっていたこちらが励まされ、また訪問するお約束をしてお別れしました。

 皆様、本当にありがとうございました。


V 「鯨と海の科学館」復旧の現場見学へ

 昨年に続き、今回も、復旧へ向け邁進中の「鯨と海の科学館」を訪ね、湊敏館長と道又純さまにご案内いただきましたました。

 科学館のある田の浜地区は、風光明媚な洲が船越半島をつなぐ地形だったので、津波が船越湾と山田湾の両側から繰り返し襲い、一時両湾がつながってしまいました。そして、水が引いてすぐに、ここはガレキ処理場になり、昨年は科学館の建物が、山のようなガレキに埋もれるように見えました。

 今回は、ガレキの撤去も進み、年度末にその処理も終わるとのことで、少しずつですが、再開館へ向けた取り組みが進んでいました。

山田町の観光と学習・研究の拠点だった「鯨と海の科学館

今回は表玄関のスロープから入ることができました

朝、海岸をご案内くださった湊館長

科学館の立地と周囲の景観についての説明
    
 低地の向かい側に、新道貝塚のある船越半島の斜面がよく見えます。縄文中期後葉〜末葉の高台遺跡です。

  
 マッコウクジラの巨大模型がつるされたドーム
 らせんのプロムナードは、ラッピングされた収蔵民具などの置き場になってます。
 
貴重なクジラ骨格標本は、地震と津波でも無事でしたが環境が悪く、カビの発生が課題でした。現在はこの部屋のみ空調が入り、町民限定の見学もできるよう準備中です。
     
寛永20年に山田湾に来たプレスケンス号模型 鎖国を知らなかった村人たちが見物に行き、また歓待したが、乗組員は役人に捕縛、江戸へ送られてオランダに帰国した。大島を「オランダ島」と通称するのは、この故事にちなむ。

  大きな被害を受けた「鯨と海の科学館」、それでも、津波に耐えた鯨の骨格標本を目にして、館の再生を期待し、山田町の復興のシンボルにすることにしたそうです。

 復興への道のりは厳しい状況でしょうが、世界最大級の鯨骨格ともに、早期開館を期待しています。

 困難なお仕事の中、海岸の自然観察と、鯨と海の科学館見学をご案内いただいた湊敏館長と道又純さまに、篤く御礼申し上げます。


   

        ⇒夏の草花に覆われた裏口(通用口)

W 山田駅前の仮設の居酒屋で懇親会

 夜は、廃墟となったJR陸前山田駅近くの居酒屋で、山田史談会の川端会長と内田さんを囲み懇親会。山田湾の夜が更けていきました。
  
 左:津波と火災でホームと枯れ木だけになったJR山田線の陸前山田駅        右:仮設の居酒屋「三五十」にて

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