2015.2.1
By さわらびY(ゆみ)
72 川端コレクションの縄文土器と津波で現れた製塩遺構に学ぶ山田湾の歴史
2015.1.23〜25 第3回山田史談会・山田湾まるごとスクール交流会の記録
T 1月23日 冬の北上山地をJR山田線で越えて、山田町へ
2015年の年が明けた1月23日、「山田湾まるごとスクール」に集うメンバー10名が、また山田町にやってきました。
「山田湾まるごとスクール」は、NPO法人野外調査研究所、馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム、新潟大学災害・復興科学研究所からなり、2011年3.11東日本大震災後、被災地の山田町の方々と交流しながら、地域文化を探求する活動を続けています。
私は一昨年8月末で訪ねて以来、一年半ぶりの山田町となりました。
今回は、山田史談会の皆様との3回目の交流研究会が第一の目的です。
特に川端弘行会長が蒐集された縄文土器片に触れることと、津波で現れた製塩遺跡について知ること、そのほか昭和8年大津波の記念碑と船越半島の縄文遺跡を見ることなど、たくさんのことを見聞し、山田町の方々とともに、山田の歴史について学ぶことが目的ですが、もうひとつ、牡蠣などの冬のグルメも楽しみな旅です。
まずは盛岡駅からJR山田線に乗車。津波でこの路線は、まだ宮古止まりですが、キハ110系気動車が北上山地の標高751mの区界峠を越える単線のルートは、車窓からの展望が変化に富み、冬は雪景色も楽しむことができました。
JR山田線の盛岡駅発快速リアス13時51分発に乗車、16時に宮古駅に着き、レンタカーを借りて山田町へ移動します。
山田史談会武藤副会長のお屋敷を訪問
17時に山田町役場に到着、 生涯教育課を訪問、課長さんと文化財担当の川向さんにご挨拶しました。
川向さんから山田史談会副会長の武藤さん宅への行き方を教わって、暗くなった関谷の古道を迷いつつ、立派な旧家のたたずまいの武藤さんのお屋敷にお伺いし、家の由来を伝える家系図などの貴重な史料などを拝見しました。
武藤さんは、地震学者・今村明恒氏が研究されたの「武藤六右衛門所蔵古文書」をお持ちの方で、夏のまるごとスクールでお話を伺いする予定です。
⇒慶長大津波の記録(山田町) 「大地震三度仕、其次に大波出来候而、山田浦は房ヶ沢まで打参候由、二の波は寺沢に打参り候、三の波は山田川橋の上まで打参り候由に御座候、折笠は礼堂まで打参り候…」
⇒「1.三陸沿岸に於ける過去の津浪に就て 」地震學教室 今村明恒 『昭和八年三月三日 三陸地方津波に関する論文及報告』
U 1月24日AM 船越半島の被災地と遺跡探訪へ
船越の「大海嘯記念」碑を見る
8時30分、宿泊しているホテルルートイン宮古を出発、快晴の天候の中、まずはJR岩手船越駅近くの石塔群にある「大海嘯記念」碑を見ました。
「一 大地震の後には津波が来る一 地震があったら高い所へ集れ一 津浪に追われたら何処でもここくらいの高い所へのぼれ」という昭和8年大津波の教訓を刻んだ高さ2.7mの記念碑で、朝日新聞社へ寄託の義援金をもって罹災町村に建てられた石碑の一つです。
ほぼ同文の記念碑は、山田町の各罹災集落毎にあるとのことで、山田史談会川端会長が、旧船越村の津波記念碑について調べられた報告は、2013年8月の「第2回ワンダーランド山田湾まるごとスクール 資料集」に掲載されています。
船越の「大海嘯記念」碑
津波記念碑についての国土交通省 東北地方整備局の参考資料
⇒「津波石碑一覧シート」
川端会長と小谷鳥浜の製塩遺跡を訪ねる
3.11大地震では、山田湾の外側と内側の両方から津波が押し寄せたという鯨と海の科学館前の低地を通り、一昨年夏にお訪ねした大浦の仮設住宅へ向かい、山田史談会の川端弘行会長と再会しました。
昨年夏、ご家族で交通事故に遭遇し、川端先生も大けがを負われ長く療養されていらしたので、ご体調が心配でしたが、たいへんお元気で、さっそく、小谷鳥浜へ同行いただき、、大津波で現れ、復興工事で今は姿を消した製塩遺跡のあった場所に、ご案内いただきました。
月光大明神社のある台地裾の小谷鳥公民館に避難していた方々18名が、3.11大津波で犠牲になりました。
現在、その上の台地中腹に、「祈りの慰霊碑」が建てられていました。小谷鳥浜と漉磯浜では、江戸時代の古文書に納税に関する記録がある製塩業について、その遺構の場所が、川端先生の調査で推定されていました。
江戸時代から明治29年の三陸大津波に被災するまで製塩に使われてい石灰製の「塩釜」で、その遺構は、明治の津波の黒色堆積層に埋もれていましたが、2011年3月11日の津波でその堆積層が洗われて、奇跡的にその姿を現しました。
2011年11月に川端先生と小岩清水先生、教育委員会の川向さんたちによりその現状が調査されましたが、その後、漁港整備の復旧工事で姿を消したそうです。
小谷鳥浜に築かれた仮防波堤を行く。
赤いカラーコーンの左下の湿地に右の写真の製塩遺構が2011.3.11の津波の後に現れて、古文書と言い伝えの「塩釜」の存在が証明されました。
「製塩遺構があった場所は、この左手に残ったコンクリート壁を背景に撮った写真(←)でわかります。
石灰を何度も塗り固めた大きな窯で、赤い焼土の層が分厚く残っていたが、潮に洗われてだんだん小さくなり、埋め立て築堤により、埋まってしまいました。」
山田町名物「かき小屋」で、牡蠣蒸焼きを賞味
船越半島のつけねにある「かき小屋」、冬は豪快な殻つき牡蠣の蒸焼きが名物です。
完全予約制で、この日は11時から40分間の食べ放題。
目の前の山田湾から採りたての牡蠣をスコップで蒸焼き台へ。蓋をして十分位蒸焼きしすると、大粒のぷりぷりの牡蠣が口を開き、その味は絶品でした。(一人数十個位は、食べたでしょうか?)
大浦の川半貝塚
山田湾を望む大浦集落の家並の間に眠る川半貝塚を訪ねました。
地形が雛段状に整地されていますが、貝殻と縄文土器の欠片が、たくさん散布しています。
山田町教育委員会がいつごろ建てた標柱なのか、かなり風化したまま横たわっていました。
縄文人は、津波をおそれてこのような台地上に永く住んでいたのでしょうか。三陸特有の貝塚の姿がかいま見られました。
大浦の霞露嶽(かろがたけ)神社と秀全堂
大浦の集落の中の坂道を登ると、霞露嶽神社と秀全堂がありました。
霞露嶽神社は本州最東端の山、霞露ヶ岳の里宮で、漁民の守り神でもあり、3年に一度の秋の宵宮祭と例大祭は、震災後の2103年にも盛大に執り行われ、さんさ踊りや虎舞なども披露されました。
神社横の道に面して、「お秀全さま」とよばれる秀全堂があります。
黄檗派の僧、慈芳秀全さまが大浦の衆生を救済するため、荒行を続け、さらに入定の志を大槌代官所に懇願し、ついに許可を得て、元文3年(1738)6月12日苦行の末入定した所と伝えられ、旧暦6月12日(7月30日)の前夜は「御逮夜」という供養が行われています。
神社の鳥居の前には中央に「大乗経血書一石一字供養礼」、裏に「元文二年卯月」「慈芳秀全」と刻まれた自然石の石塔が建てられていて、秀全の凄まじい行を物語っていました。
霞露嶽神社から山田湾を望む 「大乗経血書一石一字供養礼」碑 秀全堂
大浦の「大海嘯記念」碑
川端会長が現在お住まいの仮設住宅の広場に、昭和8年大津波記念の「大海嘯記念」碑が建っています。
川端氏のお話では、この石碑は元の位置より2度移転し、今回の3.11大津波では無事でしたが、元の位置は浸水地域となったそうです。
碑文の3項目目に、「津波に追はれたら何處でも此所位の高い処へ」と刻まれていますが、「建立位置は浸水の際を示すものではなく、集落の入り口など地区の人々の見やすい位置を選んで建立したもののようである」と川端氏は考察しています。
また、「県指定住宅適地」という文言については、実際そのような県指定があったのかは、岩手県総務部に問い合わせても、「詳細不明」で定かではないのだそうです。
碑文表面には、船越の記念碑と同じ文章で次のように刻まれています。
一 大地震の後には津波が来る
一 地震があったら高い所へ集れ
一 津浪に追われたら何処でもここくらいの高い所へのぼれ
一 遠くへ逃げては津浪に追付かる 近くの高い所を用意しておけ
一 縣指定の住宅適地より低い所へ 家を建てるな
川端コレクションの運び出し
川端さんは津波で被災し流出したお宅の跡に、一坪ほどの物置を建て、蒐集された考古資料や民俗資料、古文書などを収納しておられます。
いずれも、津波で浸水した中から、奇跡的に救出された貴重な資料です。
今回は、午後2時過ぎからの山田史談会との交流会で、縄文土器片の分類と整理を皆さんと行う予定で、そのための資料を皆で搬出、車に載せ、町役場の隣の会場に持っていきました。
今回の交流会の場所は山田町中央コミュニティセンターの一室、隣の部屋では、交流会に先立って山田史談会の総会が行われていました。
後でお伺いした川端会長のお話では、「 総会では、NPO法人野外調査研究所から山田史談会にご寄付があったことを報告しました」とのことです。
V 1月24日PM 山田史談会との交流会へ山田史談会との交流会
午後2時、山田町中央コミュニティセンターで、今回の旅の目的である「山田湾まるごとスクール」と山田史談会との第3回交流会をはじめました。
第1部
1.開会のあいさつ 川端弘行会長
2.川端コレクションの由来について 川端弘行会長
3.大浦地区の遺跡について 川向聖子さん
4.縄文時代ってどんな時代? 安井健一さん
5.土器分類のポイント 齋藤弘道さん
《土器分類タイム》
《郷土菓子とお茶で休憩》
第2部
1.川端コレクションの意義 齋藤瑞穂さん
2.発見された塩釜の歴史について 川端会長
3.山田のシンボルを探そう 五十嵐聡江さん
4.閉会のあいさつ 蕨俊夫
「川端コレクションの由来について」川端弘行会長の説明 「縄文時代ってどんな時代?」 安井健一さん
川端さんが大浦で蒐集した縄文土器を分類してみました。縄文中期から後晩期の土器片が見られ、中空土偶の足部もありました。
斎藤さんの「土器分類のポイント」は実践向きで皆、興味津々
和気あいあいのうちに5時過ぎ、閉会となりました。
夜は、居酒屋で懇親会
山田史談会の皆様と、いつもの仮設の居酒屋「三五十」で楽しく懇親会。
2011年の3.11東日本大震災から、早4年が過ぎ、被災した街中の嵩上げ工事や高台移転の住宅街造成工事の真っ只中です。
お料理も、2012年8月に来た時より、地元で水揚げした海の幸がいっぱいでした。
山田に学ぶことは、まだまだたくさんあり、これからもご指導いただけるよう史談会の皆様に、8月の「山田湾まるごとスクール」での再会をお約束いただきました。
V 1月25日 三陸の海とお別れ
「山田町まるごとスクール交流会」の最終日、今日は宮古海岸のホテルから宮古駅へむかい、JR山田線に乗って盛岡経由で帰宅の途に着きました。
真冬の山田湾でしたが、この3日間、ずっとお天気に恵まれて、心地よい旅でした。
宮古海岸のホテル食堂からJR山田線は、2011年の3.11東日本大地震により、宮古から釜石間は今も不通ですが、宮古〜盛岡間はこの季節、雪のない太平洋側から雪国へ移りゆく車窓の景色が素晴らしく、この日は、区界高原の峠から、兜明神岳がよく見えました。
宮古〜釜石間の鉄路復旧は、三陸鉄道への移管を前提に進められているとのこと。地域振興のため、この鉄道が果たす役割に期待したいと思います。
閉伊川沿いの宮古街道を遡ると徐々に雪景色に。 区界高原の兜明神岳を望む
盛岡郊外の上米内駅で下り列車と交差。撮り鉄に人気の駅らしく、数名のカメラマンがホームに出て対向車を撮っていました。約2時間のJR山田線の旅は、盛岡駅で終了。
ここで今回の「山田湾まるごとスクール」の旅も終わりとなりました。
有意義な3日間の旅を企画調整してくださった五十嵐さんほか、山田史談会と山田町生涯教育課の皆様に感謝いたします。
なお、次回の「山田湾まるごとスクール」は2015年8月29〜30日です。その時また山田町でお会いしましょう。