2004.10.3速報 By.ゆみ
2004.10.8更新
3 馬場小室山遺跡へ行ってみました
8月の終わり、「さわらび通信」BBSに発掘調査中のさいたま市馬場小室山遺跡でも環状盛土遺構が見つかっているとの情報が寄せられ、現地説明会などがあれば見てみたいと思っていました。
ところが、9月下旬、現地からの転送メールで、調査期限との闘いで緊迫している現地の様子が伝えられ、これは急いで行かねばと、10月2日、千葉市の遺跡を歩く会のサイトの地図と空撮写真を頼りに、馬場小室山遺跡へ急行しました。
発掘調査はすでに「終了」していて、調査の方の姿もなく、青シートも作業用具もなく、とても静かです。
日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の要望書によれば、「馬場小室山遺跡は縄文時代中期から晩期までの長期にわたり継続して営まれた遺跡で」、「とくに縄文時代中期においては直径150メートルにおよぶ環状集落が形成されていること、後期から晩期にかけては竪穴住居跡とともに墓域や特殊な土坑が構築されるとともに、直径数十メートルにおよぶ環状盛り土遺構が形成されていることなどが挙げられます。」とのことです。
ここが馬場小室山遺跡の入り口。
左手は低地にある三室中学校構内、ここは見沼が海であった頃の入り江だったかもしれません。
No.1発掘の終わった現場
中央くぼ地と思われる竹やぶは調査対象外の区画で、竹やぶの右手奥には、小室社という神社があります。
手前には大きな深い穴があります。
これは有名な人面土器が埋めてあった第51号土坑のように、土器をていねいに埋めた穴だそうです。
現地説明会や作業中の見学と違って、遺跡はただ静かにそこにあるだけですから、何がどうなっているのかは、私にとっては想像力の世界です。
ただ、その前の週にあったシンポジウム『井野長割遺跡を考える〜環状盛土をめぐって』の各地からの報告例が、あっ、やはりそうかと教えてくれます。
土器片はほとんど掘り上げられていて見かけませんでしたが、中期から晩期まで幾層にも重なる住居址、その間の盛土、そしてレンズ状に挟まれた黄褐色土の層。こんなにリアルに縄文遺跡の発掘現場をつぶさに観察できたのは、驚きでした。
No.2 重複している掘立住居址 (No.1の左奥) |
No.3 住居址断面 (No.2の写真の左下の断面です。黄色い土の層が斜めに入っています) |
No.4 ゆるいマウンドの断面と住居址の重なり No.1の右手あたりの場所です |
南側の断面 土器がまだ残っていました。 |
No.5 南西部の住居址 |
No.5の中央奥の住居址(浅い地層の壁立構造?の住居址) |
No.6 北側の部分 |