2004.10.11 By.ゆみ

4 馬場小室山遺跡からのメッセージ

 馬場小室山遺跡の発掘調査は、1969年から続けられていて、考古学上重要な土器や石器が出土されてきました。
 特に、県指定有形文化財の人面画土器土偶装飾土器は有名で、さいたま市文化財紹介のページにも掲載されていますので、遺跡を訪ねた後、保管展示しているというさいたま市立浦和博物館に寄ってみました。

 ところが、訪ねた10月2日から、「浦和とサッカー1世紀展」のため、常設展示されているこの遺跡の出土品も片付けられて、一切見ることができません。
 遺跡に関しての報告書や資料もほとんど置いていなく、市教育委員会でないとなにもわからないとのこと。
 唯一「浦和市出土品百選」(平成6年浦和市教育委員発行)という10年前の写真集があったので、この本を買いましたが、この「百選」になんと馬場小室山遺跡からの出土品が11点も入っているのです。

 県指定の2点の土器のほか、1982年に住居跡から出土した釣手型土器、同じく1982年に土坑から出土した注口土器1990年に住居跡から出土した台付鉢形土器は、いずれも縄文後期から晩期の傑出した土器で、日用品として使用された土器とは一線と画しているように感じられます。
 さらに1989年の発掘では、仏教の法具の独鈷に形が似ている石製品の独鈷石が2個セットで、また精巧な土製耳飾が14個も出土しているのです。

 市立浦和博物館では、展示も見られず、情報も得られないまま、その足で埼玉県立博物館へ行きました。
 ここでは、県指定の人面画土器(複製)と土偶装飾土器が土偶の陳列ケースに展示されていましたので、さっそく許可を得て撮影されていただきました。


人面画土器
(複製)

土偶装飾土器
2004.10.2埼玉県立博物館にて撮影
 人面画土器は、1982年に第51号土坑から出土した口径13cm高さ14cmの粗製深鉢形土器で、口縁に沿って沈線がめぐり、正面にハート型の人の顔が描かれています。
 眉が濃く盛り上がり、ポツポツと串で刺して口ひげが表現され、顔の周りにはあごひげがへら切りで表されて、なかなか男前の顔です。(小泉首相に似ている?)
 左側の曲線は、風になびく髪の毛が自然に土器の紋様にとけこんでいるよう。
 また、雲の間から顔を出した太陽が、おおらかに春をうたっているようにも感じられます。
 この土器が出土した直径4.85mの土坑からは、30個以上の土器も出土し、縄文晩期の安行Va式とされ、 この第51号のような土坑は今回の発掘調査でもその群在が注目されています。

 土偶装飾土器は、口縁部に男女一対の土偶を対称的に付けてある深鉢形土器です。
 頭部は両方とも失われていますが、男性がみみずく土偶で、女性が山形土偶とのこと。
 2種類のはやりの形で、男女を区別しているのがとても面白いと思いました。

  

「最新出土品展」2004.9.30-10.5(さいたま市教育委員会・さいたま市遺跡調査会)のチラシから

 ところで県立博物館を出るとき、一枚のチラシを手にしました。さいたま市教育委員会の大宮西口ビルでちょうどそのとき開かれていた「最新出土品展」です。
 そのチラシにも、馬場小室山遺跡から出土した遮光式土偶「の」字形石製品の2点の写真が載っていました。

 どちらもとても珍しいもので、独鈷石や釣手型土器、土製耳飾、土偶装飾土器などと共に、特殊遺物といえるものでしょう。
 「このような遺物が出土した遺構は特殊な機能をもつ共同的な施設で、この集落は一般的な集落ではなくある特殊な存在」と、吉見台遺跡の概要(@「総務の部屋〜遺跡巡り」で述べられていますが、馬場小室山遺跡もまた、佐倉市吉見台遺跡と同様な「ある特殊な存在」といえると思います。


小室社
 また「三室」という地名が「御室」であったと同様に、「小室山(おむろやま)」ももしかしたら「御室山」であったのではないでしょうか。

 馬場小室山遺跡の、今回の調査地区の東側の竹やぶをかき分けていくと、「小室社」という小さな神社の裏に出ました。
 小室社は、明治40年に氷川女体神社に合祀され、祭神も奇稲田姫命で氷川女体神社と同じであることから、水の神を祭ったと考えられます。
 またこの神社の裏の中央くぼ地と思われる竹やぶは、北へ浅い谷となって低地につながっているように思えましたが、盛土遺構でぐるりと囲まれています。
 この北側の盛土の下、中学校との境の道沿いに水が湧き出ていたと、この付近の家の方がおっしゃっていましたので、この付近に集落の水場あったかもしれません。そしてその上で聖なる祭りを行っていたのではと想像してしまいます。
 
 馬場小室山遺跡からの出土品は、私たちに縄文人たちのいろいろなメッセージを届けてくれています。
 さらに、たくさんの地層から積み重なって現れる住居址やその盛土の遺構、土器がたくさん入っていた大きな穴。
 それらを丹念に調べれば、もっとたくさんのメッセージが、私たちにもたらさられることでしょう。
 
 戦国の世にも城郭として改変されず、江戸時代にも畑として開墾されず、縄文時代の最後の姿を留めたまま、今も馬場小室山に眠っている遺跡。
 いま、この遺跡は全国の縄文遺跡発掘調査の最先端にあります。
 どうしても眠りから覚まさせねばならないのなら、せめて充分な調査をと願うばかりです。