2004.11.6 By.ゆみ
8 歴史の中の馬場小室山とその周辺T
1.見沼からの光景
車でさいたま市の三室へは、東北道の浦和インターから新見沼大橋を渡って、大宮台地を西へと走ります。
芝川を渡る長い橋、眼下にはかつて中世まで見沼の入り江であり、江戸時代になって新田として干拓造成された「見沼たんぼ」の低地がひろがっています。
橋の途中、北側の台地の縁には、樹林に覆われたこんもりとした山が見えます。ここが氷川女体神社。そしてその西には、馬場小室山の樹林が今よりもっと大きく見えたはずでした。(2馬場小室山遺跡のあるところを参照)
この新大橋からの光景は、中世以前の人々も見沼の水上から日々通りがかりに目にした景観をよびおこします。
新見沼大橋より 氷川女体神社の森を望む
6000年前の地形(浦和くらしの博物館民家園のパネルより)
2.水の神を祀る武蔵一宮、氷川女体神社
まずは氷川女体神社(女體神社)にお参りしてみましょう。
「見沼代用水西縁」という用水にかかる赤い橋を渡り、階段を登った先に巨木の社叢林に包まれた神社本殿が鎮まっていました。
本殿正面の軒には、「武蔵国一宮」と書かれた額が金色に光っています。
この女体神社の主祭神は奇稲田姫命。大宮の氷川神社は須佐之男命を祭り、共に出雲系の神々を祀っています。
これら見沼低地を望む大宮氷川神社と、大宮中川の中山神社(築王子社)と、女体神社の3社で共に氷川神社を形成していたと考えられていますが、女体神社に残る文化財は古墳時代の鉄鈴をはじめ、鎌倉時代執権北条泰時の奉納といわれる兵庫鎖太刀や桃山時代の神輿など、古代から中世にかけての有力者の崇敬を物語っています。
この神社が中世までこの地に君臨していた背景には、御手洗瀬として見沼の水運と漁労権を支配していたことが大きく、往古から行われてきた対岸近くまで船で渡る御船祭りは、その神域の確認を兼ねていたに違いありません。
1989〜1991年第一調整池建設に伴って発掘調査された四本竹遺跡からは、古銭や790本のおびただしい数の祭竹が出土しました。
御船祭の祭祀跡とされ、字名も「四本竹」とよばれたこの地で、四方を竹で結界して行われた御船祭御旅所の祭事。その起源は発掘調査で見つかった竹の本数から、古代まで遡る可能性もあるとのことです。
その後江戸時代、見沼は干拓により「見沼たんぼ」となり、その新田開発の代償に、神橋の向こう正面にちいさな池に浮かぶ柄鏡形の祭祀場所を確保し、かろうじて御船祭りを「磐舟祭」としてその神事を伝えてきました。
さらに、明治の神仏分離と神社の統制政策は、かたや大宮氷川神社の繁栄と、女体神社の衰退の道を開くこととなり、その磐舟祭も行われなくなりましたが、鬱蒼たる境内の樹林はその景観と共に、古代から中世の神々しい神域の姿を今に伝えてきました。
そして昭和57年、忘れさられていた磐舟祭も復活、「祭祀遺跡」は再び祭祀場に戻ったとのことです。
見沼代用水西縁にかかる神橋
氷川女体神社
「武蔵国一宮」の扁額
沼に見立てた池に囲まれた磐舟祭の祭祀場
小室神社
3. 聖地「おむろやま」はいま・・・
ところで、女体神社神社の西方1kmのところに、馬場小室山の小室神社があります。
女体神社の本殿は見沼を見据えるようにほぼ東向きの建てられていますので、その拝殿に額づくと、本殿のやや左背後にこの神社を拝むことになります。
見沼とは「御沼」で、三室は「御室」であったと、2馬場小室山遺跡のあるところに書きましたが、小室社のある小室(おむろ)山もまた「御室」で聖なる山であったというのが私の想像です。
その「おむろ」とはなにか。本HPのBBS1748でHON様にご教示いただいたように、「室(むろ)というのは、塗込めの部屋や家屋、同時に、洞窟状の住居も室といわれ、洞窟住居は神祀りの場」ですから「御室山は神祀りの山」ということができます。
『江戸名所図会』に氷川女體神社は「宮本簸川大明神の社」の名で載っていて「宮本郷三室山の南麓にあり」とあり、「三室山は女体神社の神山とすると、そこにある氷川女体神社と祭神も同じ小室社は、奥社だったのではないか」というご助言は、新見沼大橋から女体神社の杜を望むとき、まさに然りとうなづけます。(BBS1738)
そのまさに武蔵の国一ノ宮の奥社「おむろやま」は、今まさに破壊の危機にさらされているのです!
参考文献:『氷川女體神社』さきたま文庫・48 『みむろ物語−見沼と氷川女体を軸に−』井上香都羅著 さきたま出版会1998年
参考HP:見沼のつれづれ草