2004.11.10 By.ゆみ

9 歴史の中の馬場小室山とその周辺U


小室神社の参道入口の馬頭観音
1.村境の馬頭観音さま

 女体神社のある宮本から西へ700mほど行き、バス通りを渡ってドラックストアセイムスの北側の道を入ると、静かな住宅街と田園風景の混在する風景が広がります。

 その一角、農家の敷地の角の樹の下に、苔むした馬頭観音の石仏がありました。
 安山岩の硬い石に三面六臂の像が刻んであるのですが、一見、庚申塔か馬頭観音か迷ってしまうほど、時代の重みを反映して風化と破損がすすんでいます。

 馬頭観音は本来、馬の頭を持つ姿で疾駆して魔物を打ち破り、衆生を救済すると信仰される観音菩薩ですが、江戸時代には馬の守護仏として、また特に明治以降は馬による運送の発達とともに、交通の守り本尊として各地に建てられていきました。
 多くは文字碑に馬の顔をあしらった石仏が多いのですが、この刻像の馬頭観音には、江戸初期から中期ごろの古い優れた様式をうかがい知ることができます。

 馬頭観音の石仏は、庚申塔と同じく邪悪なものが入らぬようムラの境に建てられることが多く、中には外部の通行者の道案内を兼ねた道標銘の刻まれたものあります。
 この馬頭観音像も両脇をよく見ると、右には「是より○○」、左には「武笠杢左エ(門?)」の刻字があります。

 「是より○○」がどこを指してしているのかは欠損していて不明ですが、地図で見るとここは馬場と東宿の境界、そして古い道の分岐でもあることから、「是より東宿」とも考えられるでしょう。
 
 この馬頭観音のある風景が、見慣れた村里とちょっと違うと感じさせられるのが、その脇にに集められた土器片と石器などの出土物です。

 ここは最近考古学界でも注目されている環状盛土遺構の眠る六千年前の縄文遺跡。
 このあたりの畑では耕すたびに、土器のかけらや石器が出てくるそうで、その遺物を農家の方々はこの観音様の足元に寄せ集めておかれるのです。

 そしてこの石仏の右手に進むと、そこは小室神社の参道入口、馬頭観音が指し示しているのはもしかしたら、「是より小室明神」なのかもしれませんね。
 


石仏の脇には土器片や石器があります
2.村里の風景

 馬頭観音さまの前を通り過ぎ、三室小学校の方へいくと東宿、そこには小室山を背後に従えた大きなお屋敷が3軒あります。
 いずれも馬頭観音にも名前が刻まれている「武笠」氏一族の旧家で、西側のお屋敷の武笠Y氏は14代目の御当主とのことですから、江戸時代初頭以前にはもうここに屋敷を構えていたのでしょう。

 武笠氏一族の祖先は、古代より氷川女体神社の祭祀者であり、その由緒書きでは足立郡国造だった「佐伯朝臣」にさかのぼるとされています。
 武蔵国の氷川神社は前頁で述べたように、中世までは3社のうち女体神社がその中心でしたから、その神主家は武蔵国の祭祀権を司ると同時に、在地豪族として、また武士団としての力も持っていました。
 江戸時代に入って祭政も分離し、女体神社神主家と三室村名主家に分かれ、それぞれの村の有力なまつりごとをになって現代に至ります。

 小室山の武笠家も神主家から出た旧家だそうで、このお宅にはかつて格式のある長屋門がありました。
 現在この門は、「浦和くらしの博物館民家園」に移築保存され、いつでも見ることができます。
 婚礼や葬儀など儀礼用の長屋門ですが、普段は広い土間がそのまま作業場として使われた生活に密着した建築物でもあり、江戸時代後期長屋門の代表として旧浦和市指定有形文化財になっています。

 


小室山の森を背後にした旧家の景観


季節の花が咲き乱れる武笠家の広い敷地


浦和くらしの博物館民家園に移築保存された武笠家の長屋門

 この旧家のたたずまいの景観を一段と際立たせているのが、背後の小室山の森です。
 今秋の開発工事で、向こうが透けるほどになってしまいましたが、伐採前は樹齢を重ねた大木が生い茂り、遠くからも小室山と認識できる姿を保っていました。
 この小室山とその一帯は、女体神社神主家一族の武笠家の所有で、女体神社の森と同様に古代から耕作すらされない原始のままの神聖な森でした。
 そしてそこには女体神社と同じ祭神を祀った小室明神社が、環状盛土遺構という謎の縄文遺跡の上にあるのです。
 この小室山の不思議な縄文遺跡の謎、それが明らかになるとき、原始から古代への氷川神社信仰の本質も解き明かされてくると思うのですが・・・


参考文献: 『みむろ物語−見沼と氷川女体を軸に−』井上香都羅著 さきたま出版会1998年
参考HP:見沼のつれづれ草 浦和くらしの博物館民家園