2004.11.16 By.ゆみ

10 小室山に秘められた遺構の謎


小室神社
1.小室神社の森

 馬頭観音の石仏の脇の道を入ると、突き当たりに小室神社があります。

 祠の中には、氷川女体神社と同じ祭神の奇稲田姫命や須佐之男命などの額や、武笠氏が奉納した絵馬などがあるとのこと。
 ちょっと愉快なお顔の狛犬さんが、奇稲田姫命をお守りしています。

 明治39年の神社合祀令で、村里の産土の神々や小祠の整理統合が命令され、三室でも小室社を含む22の社が女体神社に合祀、廃止されたということですが、この小室社は武笠家の屋敷神として残ってきたのです。
 三室にとっても、また女体神社を斎き守ってきた武笠家にとっても、それだけ大切な神社だった証拠といえるでしょう。
 
 この祠の背後には、鬱蒼とした樹林と竹やぶが続き、太古からの巨木が、ここが聖域であることを物語っています。
 そしてその先は、緩やかに傾斜して回りを丸く囲まれた窪地へとつながっています。
 これがこの遺跡のかたちの最大の特徴点、環状の盛土に囲まれた中央窪地の遺構です。



いまも残る太古からの巨木
小室山の工事現場では
このような樹木が大量に伐採されてしまった

背後の低く傾斜した竹やぶから
小室神社を見る
2.謎の中央窪地

 この窪地の部分は現在、さいたま市の所有地になっていますが、公園化の計画も定まらず、荒れ放題のブッシュとなっています。
 藪こぎして立ち入るのはなかなかたいへんですが、中へ入ると、ぐるりと土手に囲まれた不思議な閉鎖空間にいるように感じられます。
 
 そしてこのくぼんだ神聖な閉鎖空間を、古代より「御室(おむろ・みむろ)」とよんだのではないかと、私は想像しました。
 伊東市の有名な大室山と小室山も、山頂にすり鉢状の火口をもったスコリア丘という特徴的な形をしています。
 また、広島県府中市の三室山山頂には、竜神の住む雨壷神社と岩屋が、麓には甘南備神社がありました。
 これら「御室」信仰には、それぞれ山上の凹型地形や窟屋などを神聖視する共通性が伺えます。

 ところで問題は、この径50m、周囲からの高低差約2m以上の窪地がどうやって形成されてきたのかということです。


中央窪地の様子

窪地側から西側の工事現場を見上げる
(10月16日撮影)

西側から中央窪地を望む(整地作業前の10月11日撮影
 
 井上香都羅氏は 『みむろ物語−見沼と氷川女体を軸に−』で、「小高い山の『小室山』は、いつの時代にか、あるいは付近の沼沢を埋めるとき土取りの山にされたのでは」とおっしゃっています。

 しかし1983年、遺跡の範囲確認のため、窪地西側から試掘坑を入れて調査したところ、ローム層は自然に窪地中心に向かって傾斜し、その層は自然の堆積とおもわれる状態を示していて、窪地は自然なものであることがあきらかになりました。(『馬場小室山遺跡』浦和市郷土文化会発行)
 そしてそれまで東側で繰り返し調査されて多くの住居址や土坑が発見されてきたように、現在工事中の西側山林部分でも、厚い遺物包含層が形成されていること、すなわち、遺跡の中央の窪地を中心とした包含層遺構の分布が判明したのです。

 その後、小山市の国指定史跡「寺野東遺跡 」の発見や、流山市三輪野山遺跡群、佐倉市の「井野長割遺跡」などの調査研究から、馬場小室山遺跡も「環状盛土遺構」という貴重な縄文遺跡であることが、最近になってまたにわかにクローズアップされはじめました。



西側の水平な層が重なる盛土遺構のトレンチ
しかし大きな樹木の並ぶ部分は未調査に終わった


2004年10月23日の同地点
樹木が根ごと伐採され整地された径50mほどの盛土遺構部分
この竹林から手前10m部分の調査または保存が最大の課題
 
3.環状盛土遺構の不思議

 現在、想定される馬場小室山の環状盛土遺構は、「5 馬場小室山遺跡のすがた」の概念図のとおりで、中央の窪地の周りに50mほどのマウンドが5つ確認できます。
 そのうちのひとつが、今回発掘調査半ばで開発の始まった西側盛土のマウンドです。

 「これが縄文時代の『盛土遺構』であることは研究者ならすぐ予測できる。発掘がはじまると、そこは予想どおり大量の遺物と遺構であふれた。しかも最下層には中期の集落があり、その上に後期、晩期とおよそ二千年間にわたりいくつもの住居や貯蔵穴などの遺構が層位的に見事に累積している」とボランティアで調査に協力された明治大学の阿部芳郎先生は、2004年10月20日『しんぶん赤旗』文化学問欄で述べられました。

 なぜ、縄文時代後・晩期にこのような環状盛土遺構が形成されるのでしょう。
 寺野東遺跡が注目された当初、祭祀遺構(おおげさには「祭祀スタジアム」)といわれたこともありましたが、その後関東各地の遺構の調査研究が進む中、居住址を整地して新居を作り続けた結果として重層構造のマウンドとなったという説も提起されています。
 盛土は、日々の暮らしの中で人為的に形成されたものでしょう。そしてその形成プロセスやムラの構造、あるいは人々の暮らしかたについて、私たちが知る手がかりをゆたかに含んでいるのです。
 


窪地東側の住宅地内の盛土
正面は人面土器の発掘されたお宅の屋敷神・お稲荷さま
私道とブロック塀の角度で盛土斜面の角度を推定できます

静かな秋の午後の住宅地。
この下にも、遺構が眠っています。
こうして遺跡と共存して暮らすことも可能なのです

4.遺跡と共存する街角の風景

 馬場小室山の調査は、1969年三室中学の町田信先生がたくさんの土器片が散布しているのを発見。それが発端となって主に窪地東側の現在の住宅地を中心に発掘調査が行われてきました。
  「馬場小室山遺跡の実測図」が物語るように、1984年までの8回の調査のうち6回の調査はこの東側の住宅地で、区画整理や街路工事、また家の建替えなどの際に行われてきたのです。
 中でも、1982年窪地に隣接したお宅が移築の際、発掘された第51号土坑の中からは、完形の土器34個が埋納されて見つかり、そのうちのひとつが人面画のある土器でした。

 この住宅街では区画整理などの工事の度ごとに発掘調査が繰り返され、その都度あたらしい発見がありました。
 中央窪地の周囲、そこには旧家の里山の風景とともに、遺跡と共存して暮らす市民の生活もあります。
 西側の里山にもはや「縄文の森」を残すことができないならば、大きな土取工事をさけ、遺構を壊さずに次世代に伝えるということも選択肢の一つかもしれません。
 
 参考文献: 『みむろ物語−見沼と氷川女体を軸に−』井上香都羅著 さきたま出版会1998年
        『馬場小室山遺跡』浦和市郷土文化会発行 さきたま出版会1984