2003.4.6 By.ゆみ
T
久慈川の支流山田川上流の竜神湖、今も常陸太田の水源である
1.金砂信仰はいつから?
私は、金砂信仰とは、古代からの山岳信仰が、日光山開山とともに天台宗系密教と習合した修験道であり、水分(みくまり)神として民衆に信仰された金砂権現であると思います。
大宝二年(702)に役小角が草創、あるいは宝珠上人が大同元年(806)が近江の山王権現を勧請したという縁起も、金砂山が修験の霊場となってからのことでしょう。
常陸は坂上田村麻呂伝説とともに古代より蝦夷征討の最前線でもあり、常陸大掾氏が国家鎮護に任を負う天台宗の山岳寺院を擁護し、後三年前九年の役のころは、源頼義・義家父子が戦勝を祈願したという伝承が、田村麻呂伝説に重ねられるように、この地域に生まれましたが、伝承を裏付ける確証はありません。
志田諄一氏は、久安元年(1145)日光山に聖宣法師が比叡山のそれに模した常行堂を建てたころを日光開山とする説から、金砂山開山も常識的にそのころとされています。
ちょうどそのころはまた、源昌義が藤原清衡の娘を妻として佐竹氏と称し、その権勢をのばしていく時期と述べています。(*『郷土ひたち』第53号志田諄一「金砂大祭礼をめぐる問題」)
両金砂山と華園山・真弓山・堅破(たつわれ)山の常陸五山がこうして、頼義・義家父子の、そしてそれに先立つ坂上田村麻呂戦勝祈願伝承とともに、佐竹氏の勢力下で武運長久の祈願所として力を蓄えていったと考えられます。
一方「金砂の雷は一国の雨」と里人に崇められた金砂山は、日光山がそうであったように、農業に必要な降雨や穀物の豊穣をもたらす霊山でもありました。
古代から田楽が神事として伝わっているのも、また田楽祝詞にも「金砂山に幣吊を捧げて鎮護国家と五穀豊穣を祈る」とあるように、水源の神の性格を物語っています。
西金砂神社山頂から西側の展望
東金砂神社の一の鳥居と東金砂の山並み
金砂の大祭礼は72年に一度、西金砂神社と東金砂神社の二社が、その期間をややずらして別々に、磯出の大行列と大田楽を行う不思議な祭りです。
今回(2002年)は西金砂神社が3月22日から28日、東金砂神社が3月25日から31日の日程で、特に大行列の重なった3月25-28日を「祭りの二重奏」と茨城新聞は報じ、まさに競い合うような華麗さで、北常陸の町と村と浜とを魅了しました。
この二つの山はひとつの山の双耳峰ではなく、山田川を隔てて相対する別の山で、説話では、西の神は女神で、東の男神に嫁いで夫婦になったと伝えられ、また近世はその宗教的な性格から、西を神の山、東を仏の山と表現されています。
西金砂山に登ってみると、鳥居の手前に方形の郭があり、「金砂城址」佐竹氏の城郭跡という説明板が掲げられています。ちょうど、磯出の行列が還御した時のための祭場の準備がされていました。
看板によると、治承4年(1180)源頼朝の佐竹氏討伐の金砂攻めに際し、佐竹秀義が籠城した城郭跡とのことです。
もとは金砂山といえば、現在の西金砂山を指していたとのこと。
西金砂山の神社や寺院は天険の要害の地にあり、即、佐竹氏の城郭として利用され、このとき金砂城攻略に苦戦した源頼朝は、佐竹氏を敗走させて山頂の城壁を焼き払ったといいます。
神社・寺院も兵火にかかり、その後、頼朝は金砂山がふたたび戦略上の拠点になることをおそれ、西金砂山を中心とする信仰を新しく東金砂山に移すという宗教政策をとりました。
佐竹氏に代わって久慈郡の地域を支配した二階堂氏も、建治年中(1275-1278)に西金砂別当職を勝楽寺に寄進したといわれます。(吉田一徳『常陸南北朝史研究』)。
その後、佐竹氏の旧領回復により、再び西の山は興隆し、争乱の際には佐竹貞義や義舜の戦略拠点ともなって、ますます佐竹開運の山とし崇敬されたのでしょう。
東金砂神社社殿
城跡の前から山頂の西金砂神社へ
西金砂神社社殿
同じ歴史は、近世佐竹氏が秋田に左遷、かわって徳川氏が入ってきた時、また繰り返されています。
徳川家は、佐竹氏の力の強く残る西の勢力をそぐため、光圀は全藩内で行っていた宗教政策の一環として、西の別当定源寺を廃し、宮司鷹巣氏を下山させて、東西の力を逆転させたといいます。
私には、この政策がまるで京都の本願寺を東西に分けたことのように思えます。
こうして、東の東清寺、西の宝蔵院を別当とする体制が、二つの神社の大祭礼ともなって、制度化されていったのでしょう。
西を神の山、東を仏の山というのも、金砂権現は、もともと西金砂の神であったからといえます。