2003.4.26 By.ゆみ
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文久2年(東)金砂大権現大祭禮行列繪巻から「衆徒廿一人」
3.江戸時代の行列は今とどこが違う?
今回の大祭礼は準備過程ではインターネットが活躍、いながらにして小祭礼の写真や前回昭和6年の大祭礼の絵巻(1931年個人蔵東金砂神社第16回磯出大祭礼供奉記念繪巻)を見ることができ、大行列や田楽への期待がふくらんでいきました。
この昭和の大祭礼の絵巻は、ポスターなどにも使われて、すっかりおなじみになりましたが、次の絵巻(1862年東金砂神社蔵文久2年(東)金砂大権現大祭禮行列繪巻)は、ちょっとびっくりでした。
東の東清寺、西の宝蔵院を別当とする金砂神社の体制が江戸時代に整備されたと、前ページの「なぜ東と西の金砂神社があるのか」で書きましたが、文久2年の東金砂神社大祭礼の絵巻を見て、とても仏教色の強い印象を受けました。
明治維新時の廃仏毀釈前の神社は、どこもだいたい神仏習合です。
神仏習合とは、10世紀ごろからの「本地垂迹説」により、神とは、本地である仏・菩薩が民衆を救済するため、権(かり)に迹(あと)を垂れて現われた化身すなわち「権現」であるということで、ちなみに東金砂の本地仏は薬師如来、西金砂は千手観音です。
文久2年の絵巻での東金砂神社のたたずまいも寺院で、右の楼門を入り階段を登ると壊れかけた「田楽堂」があります。
この「田楽堂」は幕末の天狗党の乱までは、平安初期の薬師如来を祭っていた「薬師堂」でした。
その上には鐘楼があり、さらにその上に拝殿と御本社があり、また薬師堂の左手には多宝塔と「本堂」(今は社務所)がありました。
中世まで比叡山日吉権現21社にちなんで21あった僧坊は、近世に水戸光圀によって除かれて別当寺に変えられたとのことですが、それでも幕末の大祭礼では、僧侶が祭礼をとりしきっていたということを、この絵巻で見ることができます。
まず文久2年の東金砂の絵巻での21社小旗は「金砂大権現」旗です。
それが明治の廃仏毀釈と国家神道化によって、昭和6年絵巻では「東金砂神社」旗となり、今回の大祭礼では近隣の神社の旗となりました。
また、文久2年では、たくさんの付き人を従えた「院家衆」の御駕籠5丁、そして馬に乗った21の神猿、そして21衆徒が僧侶のいでたちで続き、21人の太刀持ち、そして神輿の前には4人の荘厳僧が先導しています。
これら中世からの21坊の名残の衆徒の供奉も、昭和では、神主と氏子惣代や村長・区長に替わっています。
修験の大道場であった西金砂でも、正徳5年大祭礼の史料によれば、700人もの山伏が供奉し、特に村松の龍蔵院は籠に乗り、侍4人ほか多くの従者を従えた華々しい行列だったようです。
昭和の西金砂大祭礼で特徴的なのは、21の御金幣持ちの供奉です。
今回も、神職と同じ装束で、西金砂にある21社の分霊を金幣に宿し、保持する格式で加わっていました。
今も神社の片隅に、神仏習合時代の石仏などが見うけられます。
といっても、明治以降、神道一色になってしまった現代の大行列からは、かつて僧侶と山伏中心だった時代の金砂権現大行列の姿は、想像つきませんね。
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鳥居とお地蔵様(天下野にて) |
大黒様の手前に羅漢像(西金砂神社にて) |
ところで、今回の両神社の行列で、かっこよかったのは「青士」の皆さんです。
江戸時代の武士の衣装で一文字笠をかぶり、紋所は佐竹家紋と同じ「丸に日の丸五本扇」の神紋。
江戸時代の初め、水戸藩からの武士団が、藩の威信と統制・警備のために威儀を整えて参加したのでしょう。
志田教授によれば、正徳の大祭礼からは上層農民が名誉なこととして青士の役になり、また祭礼の費用も彼らが負担するようになったそうです。
中世は佐竹氏、近世は水戸藩、そして国家神道だった近代は県知事が統治した大祭礼も、現代は政教分離の原則から行政の支援はなく、実行委員会と村や町の協賛会・氏子組織で担われました。
青士は、祭礼の成功のため、30万円以上の奉賛金に応じた方々の誉れ高いお役目だったようです。