2003年夏  

伽耶・新羅史跡めぐりの旅日記
第2日目 8月20日 (水) AM 

 釜山港の夜が明けた

 ホテルは、釜山港を見下ろす(身分不相応な?)最高級のコモドホテル。
 窓を開けると、まさに 「朝鮮」という意味のような鮮やかな朝焼けの海が見えました。

 この付近は山がすぐ海に迫っていて、大型船にとって海深が十分な良港なのでしょう。 
 散歩に出てみると、ホテルの向かいは教会。そして背後の急斜面には住宅が立ち並び、長崎の街のように思えました。

 さあ、今日はきっと天気! 出発まで、そう疑わなかった朝だったのですが・・・。     (By.Y)
 

 


金官加耶建国神話の地へ


 どこでも古代の「国」の始まりの伝承は、ユーモアと想像に満ちています。
 古代加耶には4つの国があり、そのうちの金官加耶の王は空から亀旨峰の山に卵でやってきて、国を創ったとのこと。
 その王の名は、「首露王」。そしてその王陵と亀旨峰を望む高台には、大成洞古墳群があって、4世紀には確実に「王」がいたと実証されつつあるらしいのです。

 首露王陵はとっても立派なお墓であるらしく、事前学習会で鈴木英夫先生に「首露王陵は確かに伝承上のことだが、参拝なさってる方もおられ、その子孫の金海金氏は、神話だとは思っておられませんし、大統領を出している最大一族。伝説だと言う話はその場ではなさらない方がいい。」と、ご忠告を受けました。

 『三国遺事』に載っている『駕洛国記』では、首露王の降臨はAD42年、その7年後、インドのお姫様を王妃にし、199年まで長生きをしたそうな。
 でも年表を見ると、3世紀までの弁韓などの小国の時代で、考古学的にみても金官加耶は4世紀の成立のはず・・・。
 まずはその「伝承」の地に、私たちは「しっかり口を慎んで」足を踏み入れるわけです。

 はたして歴史マニア?の詮索好きのわが一行に、それができるのかどうか・・・。  (By.Y)

 
首露王陵
宣祖王13年(1580年)王陵らしく改築、床石や墓標が整備されたとのこと。前面左右に文武官と石獣が控えている

駕洛楼
「駕洛国大王を奉っている」という意味らしい
「どうせ神話よね」とおしゃべりしているうちに、すごい雨。

出入り口の「崇化門」が水没?
靴を脱いでの脱出
やはり首露王のたたりは生きていた

 2日目は朝から雨模様、バスに乗り込んだとたんに降りだしました。
 首露王陵見学は土砂降りの中。
 仕方なくしばらく雨宿りしていたのですが、雨足はますますひどくなる一方。
 水はけが悪くて、出口からは脱出できない状況に追い込まれてしまいました。

 何とか脱出したものの、靴はぐちゃぐちゃ、どうなることかと思いつつ金海博物館に向かいました。(By.T)

 
 冗談交じりに「神話といった罰が当たった」と、Tが鈴木先生に報告したら、
 「それにしても首露王のたたりは今も生きているのですね。
 新羅末・高麗初期にも、首露王および王陵を軽んじたために、人生を狂わせた人の記録があります。
 この程度で済んだのでお祝いすべきですね。」との、先生からのメール。 ああ、こわっ!!



 金海博物館へ

 雨から逃げ込むように、近くにある国立金海博物館に入りました。
 博物館の外観は、加耶の鉄文化を象徴的に表現しているというのですが、とにかく中へ。
 古代加耶文化テーマに1999年にオープンしたばかりの博物館、展示室入り口には、日本の埴輪の船をかたどったモニュメントと地図が飾られて、海の文化をイメージしていました。

 館員の崔さんがきれいな日本語で説明くださります。
 日本の縄文文化を思わせるような、新石器時代の土器や黒曜石のやじり、吉野ヶ里の遺物とまがうような青銅器・三韓時代の出土品に続いて、3世紀以後の加耶文化を表す鎧や馬具の鉄製品や、精巧な器台土器や環頭大刀が並んでいました。

 そのうち私が注目したのは、マグカップのような「把手付杯」です。
 今年の1月、千葉県君津市鹿島台遺跡の円墳から出土したばかりの勾玉2個付いた首飾りや、舟の線刻のある把手付だった須恵器のカップを見ました。
 崔さんにお聞きすると、加耶には把手付の土器がいくつもあるとか。
 鹿島台遺跡の遺物は、玉田古墳群から出た勾玉つきの首飾りとも似ていますし、なによりも咸安などから出土した把手付カップもそのルーツとして興味深く感じました。
 こんなすてきなマグカップでコーヒーが飲めたらと思ってお聞きすると、レプリカが売店に置いてあるとか。
 (でも、残念ながら売り切れでした。) (By.Y)
 


金海大成洞出土土器 4〜5C(図録より)

千葉県鹿島台遺跡出土の須恵器
把手の痕跡と舟の線刻がある
    
咸安篁沙里古墳群から出土した把手付杯 4C       (図録より)         咸安末伊山34号墳の土器 5C  

 ピロティーには、国宝275号の「騎馬人物形土器」を模ったモニュメントが、滝のような雨水に濡れています。
 この土器は金海徳山里出土の名品で、この模型は金海市のシンボルとして街のあちこちに飾られています。
 本物は、慶州の菊隠記念室にあるとか。菊隠とは、考古遺物の収集家であった李医師の雅号だそうです。

 私は、把手付杯のかわりに、この騎馬人物形土器の実物大レプリカを記念品として買いました。 (By.Y)
 


国宝275号の「騎馬人物形土器」を模したモニュメント

「アンニョンハセヨ」 皆まじめでお行儀がいい

 



大成洞古墳群からクシフルの丘を望む


見学を終えて、大成洞古墳群に向かいました。
雨は、気にならない程度になっていました。
しかし鈴木先生に事前学習会でご説明いただいた亀旨峰の見える光景は、マンションにさえぎられてイメージがそこなわれていました。
ここが金官加耶の中心地だそうですが、残念なことに博物館がまだ建設中で中には入れませんでした。(By.T)
 


大成洞古墳群より 白い建物の後の丘が、伝説の亀旨峰

大成洞5〜22号墓 ここから虎形帯鉤や盾飾りが出土した

 釜山大学の申敬チョル先生はパチンコ屋の日本語を習ってしまったと、話していたように記憶してます。
 親近感を持てるキャラクターでした。
 申先生の説は大成洞や福泉洞などの発掘成果を踏まえて興味深い説を唱えられたことで有名です。
 加耶の墓制が突然北方系になるのは殉葬の風習などは北方的習俗であって、特定種族の移動を想定、しかも先行文化の破壊は金海地域に置ける支配集団の交代、それは扶余文化であるというわけです。
 ご存知、騎馬民族征服王朝説そのものといえますね。

 今回の旅行では、もし申先生のお話でも聞くことができたらとお願いしていたのですがお忙しいようで、残念ながら実現できませんでした。
 それでもはじめて、大成洞や福泉洞の現場を訪ねたことで金官加耶の中心地に立つことができたことはうれしかった。


軟質甕 4C 福泉洞 ・ 大成洞 (図録より)



 ところでその申先生ですが、昨年の歴博の国際シンポジウム『古代東アジアにおける倭と加耶の交流』では、またまた興味深いご発言がありました。

 3世紀末、洛東江下流域−金海・釜山−への北方文化の影響を述べられ、
@殉葬、 A厚葬(土器の多量埋葬)の習俗、 B陶質土器、 C鉄製甲冑、 D騎馬用馬具、 E歩揺付金銅冠、 F「オルドス」形ふくといった物質文化、そして、これら@〜Fの文化を持った「金海型木槨墓」が、先行の墳墓を破壊しながら造営されているとされましたのは、前述のとおり。
 この報告では、「日本列島系土器」の流入について、これが加耶建設の時期とするならば、「日本列島各地から加耶建設に動員された倭人集団」の存在を意味するということです。

 えっ、これってどうなんでしょうね、申先生の解釈は面白いですが・・・       (By.T)

 参考HPにリンク→ 「金海博物館」 「大成洞古墳群」