2003年夏
第2日目 8月20日 (火) PM
大加耶の多羅の国へ
大河洛東江は、加耶にとって「母なる河」なのでしょう。
増水した洛東江を渡る
洛東江下流の東側にトンネの福泉洞古墳群、西側に金海の大成洞古墳群を遺した金官加耶を中心とした前期加耶の繁栄は、4世紀から5世紀前半をピークに衰え、その後の後期伽耶文化は、洛東江を遡った高霊から陜川など内陸山間地方に舞台を移したと、遺跡調査からわかってきたそうです。
その高霊を中心にした大加耶の一つの国に多羅の国があり、そこにある「玉田古墳群」の発掘成果が最近紹介され、高霊の池山洞古墳群と並ぶ王者の墳墓として大きな話題を呼んでいます。
加耶の古代文化を知るために、今回の旅行を企画したTは、遠く大加耶にも足を入れてみたいといって、第一日目の晩、ガイドの朴さんと打ち合わせをし、何とか大加耶の入り口の陜川玉田までなら半日で往復可能ということになりました。
高霊の池山洞はさらにもっと遠く、スケジュールの全面修正をしなければ無理ということでこれはあきらめ、2日目の午後、しっかり石焼ビビンバで腹ごしらえをし、さらにおそくなっても大丈夫なようにパンも買い込んで、洛東江上流の陜川玉田をめざしました。
途中、安羅加耶だった咸安を過ぎて、道路は洛東江を渡り、北上します。
この夏の長雨は韓国南部も東京と同じで、さらに午前中の豪雨もあり、洛東江は河川敷の畑まで冠水させ、満々と流れていました。
洛東江の支流、黄川沿いに少し入った豊かな水田地帯に、「多羅里」の地名の集落があります。
『日本書紀』の「欽明天皇二三年」の記述にある「任那」十の国のうち、「加羅」と並んで比定できる古代「多羅」の地とされているムラです。
さすがに、ここまで来る観光客はなく、ガイドの朴さんも地元の先生に道案内をお願いし、その方の車の先導で、真新しい建物に到着しました。
まだオープン前の玉田古墳展示館とのこと、でもここからだと急な山道になるので、さらに古墳のある山の上までバスで上がれる回り道を案内していただきました。 (By.Y)
陜川郷土史学会会長
李榮基先生
草溪の野遊(仮面劇)についての
李先生の研究のご著書
日本の田楽踊りのような、楽しそうな仮面劇
最新の主な出土品についての説明
蒙古風の甲冑、曲玉、ガラス杯、耳飾など
(これは、金海博物館展示品図録より)
玉田古墳群に立って
遺跡に案内いただいたのは、陜川郷土史学会会長で中学・高校の校長・教育長を歴任された李榮基先生、草溪の野遊(豊作祈願の仮面劇)などの民俗調査のご著書も書かれておられます。
炎天下、さっそく出土品の写真を手に、玉田古墳調査の成果をお話くださいました。
午前中の雨はうそのように上がり、夏空の下には、きれいに整備された丸い古墳が累々と並んでいて、眼下の水田の向こうに、「多羅」の里が見えます。
前日、金海博物館で見たすばらしい環頭大刀や馬冑を思いうかべながら、李先生のお話を聴き、後期加耶のセンター的存在だった古代多羅の景観を堪能しました。 (By.Y)
李先生のお話から
2時間以上かけて来た甲斐はありました。その光景に感動でした。
ご案内いただいた郷土史家の李先生のお話から・・・・
「ここでは私の幼いときから、刀とか太刀とか出ていました。拾って遊んだりしたものでした。
85年、発掘チームが調査した結果、古墳であることがわかったのです。封土はあとになってからつくりました。盗掘されないようにするためです。
戦争中は荒れ果てたままでした。封土がないのでどこが古墳かわからなかったのです。
『駕洛国記』には多羅国が見えますがその国がどこに存在したかはわからなかったのですが、この古墳が出たことでわかりました。
ここからは山字王冠や高霊の土器も出ました。
4、5世紀は木槨墓だそうです。5、6世紀は横口も出るし、片袖型の古墳が出ました。
副葬品も多くありました。耳飾、冠、ガラス製品も出ました。
大学で制作した本は、晋州の慶尚大学の発掘チームが持ってます。ここからは2時間ぐらいかかります。
ここへ来る道の左側が多羅里という地名です。玉田では中心勢力がすんでいたのは多羅里です。今は小さい農村です。
王の城は、展示館の後ろ、村全体が城の中です。」 (詳しい説明は→こちら ) (By.T)
李先生の説明をガイドの朴さんに訳してもらいました
バスを止めた古墳群の北側の背後の山には、左手に現代も祭祀の行なわれている墳墓と、
右手にりっぱな祀堂があります
李先生を囲んで記念写真を撮りました参考HPにリンク→ 「玉田古墳群」 「大加耶遺物資料館」