2003年夏  

伽耶・新羅史跡めぐりの旅日記
第3日目 8月21日(木)AM

 新羅千年王国の慶州は、博物館から

 この日は、朝ゆっくりした時間に釜山のホテルを出て、バスで一路慶州をめざしました。
 晴れていた空は、ちょっとぐずつき気味。高速道路から右手に美しい山並みが見えてきます。
 花崗岩の岩肌に木々の緑が映え、ゆったりと裾をひいた南山は、新羅のころの石仏がしずまる霊山です。

 高速道路のインターチェンジは、古代都城の門を思わせるデザイン。ガソリンスタンドも古都をイメージしています。
 奈良盆地のような懐かしい風景が続いていますが、慶州歴史遺跡地区としての町並み保存の努力は、さすが新羅千年王国の貫禄がありました。

 慶州に着いたらまずは、博物館へ。
 ここの収蔵品いくつかは、日本の古代史を彩る考古資料や文化財との関連で、多くの書籍の口絵を飾っているなじみの深いものもあります。
 古墳や廃寺跡から出土した名品の数々を短時間で見るのは至難の技のよう。しかも、「統一新羅展」の特別企画展をやっているではありませんか。
 とにかく時間がたりない! 未消化のまま、駆けるように見て廻った慶州博物館でした。(By.Y)



 北漢山真興王巡狩碑、その建碑された光景
 

 学芸研究士のKさんのご案内で慶州博物館の考古館を一巡り、さらに雁鴨池出土物を収蔵展示する館をも拝見させていただきました。

 さらに統一新羅展の会場へ。
 そこに北漢山の真興王巡狩碑が鎮座していました。
 これには、びっくりしましたし、感激でした。実物を見られるとは思っていませんでした。

 昨年3月〜6月、歴博で「古代日本文字のある風景」が開催されました。
 多くの韓国からの文字資料の出品がある中で、北漢山真興王巡狩碑は拓本があり、その建碑された光景のパネルを見てかなりインパクトを受けたことを思い出しました。
 
 ソウルの北、北漢山の山頂の巨岩の上に立っているその情景を、企画展『統一新羅』の図録からの写真でご覧ください。

 1816年に金石学者の金正喜が発見したとのこと、今は史蹟標がたっていて実物はソウルの中央博物館に収蔵されているのだそうですが、今回は偶然ですが運良く慶州で実見することができました。
 この北漢山には、機会があれば登ってみたいものです。

 真興王の即位は数え年7歳、初めは母の只召夫人が摂政したといいます。
 在位は540〜576年の長きにわたりました。その間、皇龍寺の着工が553年とのこと、これは仏教国だったことの象徴でもあります。その巨大な伽藍を翌日(22日)、暑い最中でしたが私たちは自分の足で確かめてきました。

 この真興王の時代は、領土の拡大作戦が挙行されたことでも特筆される時代のようです。
 しかも中国とのルートになりうる西海岸を目指し、552年、高句麗と百済の戦いに割って入った状態で、漢山城一帯を占領したのです。
 現在のソウルの地が新羅の領土になったことになります。
 そのモニュメントが「北漢山真興王巡狩碑」です。

 またこの時代は、有名な戦士制である「花郎」の活躍した時でもあリます。
 真興王自身が花郎あがりだったかもしれない、という説もあるようです。

 大加耶の滅亡は562年、花郎の戦功があったからこそ新羅が勝利した、と考えると最初の私たちの訪問地であった加耶に思いをはせ、複雑な心境になります。 

(礪波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社、1997を参照しました。) (By.T)
 



残された石の塔や仏たち

 黄金に輝くまばゆいばかりの王の冠、馬具、舎利荘厳器など(館内は撮影禁止ですので、関連サイトでご覧くださいに圧倒され、全てを見きれないまま、私はひとり、博物館の庭にいました。
 
 門入り口近くでは、巨大で美しい聖徳大王神鐘に、親子連れなど人だかりができています。

 この鐘の鋳造は新羅第35代、景徳王が、亡父・聖徳王の冥福を祈るために作り始め、その在位中には完成に至らず、その息子である恵恭王に引き継がれた大事業だったそうです。
 また鋳造する際に溶けた銅の中へひとりの娘を捧げ、娘が「エミレ(お母さん)」と泣き叫んだことから、この鐘は別名エミレの鐘と呼ばれているとか。
 日本の伝説でも、堰堤を構築する際の「人柱」伝説が、どこにでもありますよね。(民俗学講座で知る前は、「人柱」なんてこわーいお話と思っていたのだけど・・・)

 中庭には仏国寺の釈迦塔と多宝塔のレプリカが威厳を沿え、人気のないその奥の方には、古代の石塔・石仏が整然と並んでいました。

 中でも高仙寺の三層石塔はすばらしく、そのほか金堂(本堂)址、亀趺などが残されています。
 暗谷洞にあった高仙寺址は新羅第31代、神文王の時代に創建された寺で、ダム工事で水没するため、ここに移されたのだそうです。

 慶州地域の廃寺や宮跡に残された石の塔や仏たちは、静かに仏教と関連深かった新羅の古代を語ってくれていました。(By.Y)

    
石の仏たちとの語りあい                         高仙寺の塔や礎石などが並ぶ庭
    
高仙寺の三層石塔                                             累々と並ぶ古代石造遺物
   
ジャンハン里の寺址から移された石造如来立像 破損がひどいがよく見ると左肩の化仏が柔和な面差しで残っていた
   
左 南山茸長渓にあった石造薬師像                                     右 羅漢像隅柱石(邑城)

 
 弥勒信仰の世界

 実はこの日だけで、慶州博物館の興味のあるものを見るということは不可能に近く、翌日の史跡見学終了後、あらためて個人的に見学の時間を持つことができました。

 新装成った美術館の彫刻室に足を踏み入れると、童女のようにやさしく微笑んだ石造弥勒像が迎えてくれます。
 どの石仏も鼻が欠けているのは、後世、女性たちが男子出生の祈願のために、削って飲んでしまったからとか。
 南山長倉谷の山寺にあった石仏ということは、鎮護国家や王侯貴族の信仰の対象というより、庶民が拝した仏だったのでしょう。

 その右端には、金ユシン将軍の墓の近くの松花山から出土した半跏思惟像が置かれていました。
 頭と両腕を欠いた石像ですが、緊張感のみなぎる胸周りと、リズミカルな衣の裾の襞が見るものをひきつけます。
 腰から下がる組紐の垂飾は青年貴公子の象徴、ほっそりとした上半身は、深い思惟に没入し澄みきった境地にある身を思わせます。

 隣の部屋には金銅製の小さな半跏思惟像が3体、じっと沈思黙考しています。

   
石造弥勒像(南山長倉谷)      石造半跏思惟像(松花山)      金銅半跏思惟像(成乾洞)    

慶州博物館の弥勒像(図録より)

長崎の弥勒像

日本二十六聖人記念館蔵


 閉館間際のほとんど誰もいないこの部屋で、新羅の遺した仏像とじっくりと向き合っていると、さまざまな思いがわいてきました。


金銅半跏思惟像頭
伝 皇竜寺跡 
(図録より)

 それは、日本に残された二つの半跏思惟像と、その像に託された人々のへの思いです。

 その一つ、太秦・広隆寺の「宝冠弥勒半跏思惟像」は国宝第1号として「人類最高の美の表現」と絶賛された弥勒像、もう一体は、長崎の日本二十六聖人記念館にある14cm足らずの銅製半跏思惟像です。
 
 太子信仰とともに祀られてきた広隆寺の像は、推古30年(603年) 新羅王から聖徳太子に贈られたといわれます。

 また長崎の像は、「ジェズスさま」として潜伏キリシタンの家の奥深く伝えられてきた像ですが、実は三国時代に朝鮮半島で制作された弥勒像でした。

 慶州博物館のケースには、皇竜寺跡から出土した頭部だけの小さな像がありました。
 三面宝冠の跡と、右あごに手指を接していた跡があり、半跏思惟像であったとわかります。
 その温和に微笑む表情は、長崎の半跏思惟像に相通じ、その故地での弥勒信仰を思い起こさせます。

 三国時代の新羅では、貴族の青少年の結社「花郎(ファラン)」が、その気高いモラルと教養、訓練された武力で時代を牽引し、その「花郎」の中からリーダーとなった金ユシン将軍によって、三国統一がなされたとのこと。
 弥勒は、釈迦の入滅後、56億7千万年の後に現われて衆生を救済するという未来仏。
 その信仰が、弥勒の化身としての花郎に託され民衆に支持されともいわれます。

 新羅では、さまざまな像容の弥勒像が制作されたことでしょう。
 その中でも、釈迦が太子だったころ、真理にめざめようとして思い考えている半跏思惟の像容は、未来仏との出会いを待ち望む人々に、希望を約束するスタイルの像として特に崇められ、日本にも将来されてきました。

 広隆寺や中宮寺の弥勒像が、聖徳太子信仰と不可分で伝えられてきたこと、また、青銅の弥勒像がキリシタンの家に救世主のイメージで信仰されてきたことの本質は、末法の世を思わせる不安な社会、あるいは苦難と迫害の世に、ともに未来への希望を約束するものへの思慕であったと思います。
 
 また韓国において、今に至るまで弥勒信仰を心のよりどころとしてきたことの背景には、大陸と日本双方からの侵略による困難な歴史が大きく影響しており、その歴史の上に現在韓国でキリスト教が定着している現実には、なにか深いものを感じざるをえません。
 
 新羅の弥勒像と対面して、弥勒信仰をアジアの歴史の視点で思うきっかけとなった今回の慶州博物館見学でした。 (By.Y)
 
 

参考HPにリンク→ 「プサンナビ・慶州博物館」 「仏像写真ギャラリー飛鳥園・広隆寺弥勒菩薩坐像」