2003年夏  

伽耶・新羅史跡めぐりの旅日記
第3 日目 8月21日 (木) PM

 王陵の苑にて

お土産に買った天馬と金冠が描かれた額
天馬塚の由来は、副葬品の馬の両腹の被いに
飛んで行く天馬が描かれていたからとか


 古墳公園は実は2度目の訪問です。10数年前観光旅行で立ち寄りました。
 こうした観光旅行でも案内していただけるほど、ポピュラーな名所だということでしょう。

 積石木槨墳というのは、新羅前期の墓制を特徴付けるもののようです。
 とりわけ天馬塚は、内部が見られるというのですから、実は大変感動的なことなのであります。

 その天馬塚の内部を見てきました。
 木槨の中に棺と副葬品が安置されていて、槨の上部と横に縦横に河原石を積み、さらに土で覆って封土をつくるという構造をもつのが、この積石木槨墳ということです。
 木槨といういわば丸太小屋みたいな部屋の上に石が積んであるのです。
 よく耐えうるものだと思うのですが、構造的には木槨の基底部もしっかり作られているようです。
 ところが発掘の際にはさすがに木槨は崩れていたらしいですが、仕方ないですね。

 天馬塚の隣には、皇南大塚があり、その威容を誇っています。
 円が2つくっついている双円墳ですが、発掘で南墳が先に作られ北墳が後に造営されたと判明しているようです。
 北墳の被葬者はどうも女性らしい。となると王妃ということです。

 南墳の被葬者については、古墳編年から、実聖王(402〜417)と訥祇王(417〜458)の可能性が想定されていますが、古墳編年と南墳被葬者の推定年齢60歳男性の鑑定などから後者であるとされるようです。(早乙女雅博『朝鮮半島の考古学』、同文社、2000年)

 ところが実は北墳が夫人の墓らしいことがはっきりしているのに、出土の冠は北墳の方がどうも立派らしいのです。
 南墳出土の冠は金銅冠、北墳の内棺からは金冠が出土しています。 つまり南墳からは金冠は出土していません。
 被葬者の想定にも関連するこのような謎の解明をしている由水常雄説もあるので、ご興味ある方には面白いです。(『ローマ文化王国−新羅』新潮社、2001年)

 
 皇南大塚の双墳  左側が北墳? 
 
天馬塚
 「積石木槨墳」の内部と出土品が見学できる

 実はこの積石木槨墳という墓制、つまり高句麗的な積石と楽浪的な木槨が一体となったこの形式がどのようにして出現したかということは、朝鮮半島の興亡の歴史を物語っているように見えます。
 この墓制の成り立ちについて、どう考えればいいのでしょう。

 「4世紀以来、高句麗と百済は戦争をくりひろげ、371年には百済の近肖古王は平壌城を攻略している。 そうした状況のなかで高句麗の墓制が伝播した。 一部に高句麗人が埋葬された可能性すらある。
 4世紀末〜5世紀前半代に高句麗の勢力は強大となり、その軍は慶州・伽耶の地にまで侵入した。 版図は、漢江上流域に達し、5世紀初めには忠州に至っている。
 また4世紀初めに、楽浪・帯方郡を滅ぼしたのも高句麗・馬韓であった。
 しかし楽浪・帯方郡末期の墓制は木槨墓からせん室墓・横穴式石室墓に変化しているので、木槨墳の直接的な影響関係は明らかでない。
 慶州では5世紀中葉以後に天馬塚で復元されたような巨大な木槨墳が成立しており、楽浪・帯方郡の滅亡とはその契機をことにするかもしれない。」(『韓国の古代遺跡1新羅編』東潮・田中俊明編著、中央公論社、1988)

 これまた、謎が深まることです。(By.T)
 
味鄒(ミチュ)王陵
「新羅13代王の味鄒王って、3世紀、金氏の初めての王ですって」「古墳の内部はどうなっているのだろう」「ダメよ、お口を慎まなきゃ」
   
いたずらっぽいリスがいた                                     さすが儒教の国

 

韓国のまほろば・古都慶州


 私にとっては初めての韓国、それなのに、懐かしい古都に来たような気がしました。
 低山に囲まれたおだやかな盆地。王陵の群れや古都宮城の礎石が緑なす広い園地に散在し、遠い歴史を感じさせてくれる街。
 奈良・飛鳥を周遊しているようなそんな気がします。

 墳丘のさだかでなかった原三国時代(三韓時代)の地下の埋葬施設は、新羅の建国を経て小山のような封墳を地上部に表し、そのいくつかは今も伝承に基づいて、遠い祖先たちをそれぞれの子孫たちが斎き祀っています。

 戦乱の絶えなかった朝鮮半島で、日本のような木造建築は残っていませんが、古墳や石造物が今もなお千五百年の昔を伝えてくれます。
 夏の暑いさなか、家族連れやレンタサイクルの若者たちが遺跡をまわり、しずかに歴史と触れあっている、そんな世界遺産の街でした。(By.Y)

 
瞻星(チョムソン) 第27代善徳女王在位中(632-647年)に築造、天文と関係の深い塔

古墳と遺跡の眠る風景



月城(ウオルソン)址にて

 千年の都であった慶州は、王の住む都城でした。

 「三国史記」が「101年に新羅第5代の王が築城した月城」という記述の確認は、発掘の成果をを待たねばならないようですが、この小高い丘を、歴代新羅王朝は一貫して宮城としてきたとのこと。

 三日月の丘の裾を南川が流れて、その側面は自然の断崖をなし、北側は土石で築いた城壁の痕跡が残っています。
 その外側の濠(ヘジャ)では、今も発掘調査が続けられ、木簡などの出土により、「三国史記」の世界が少しずつよみがえりつつあるとか・・・

 かつて楼門・宮殿が並んでいたはずの城内には、現在、18世紀の石氷室が遺されています。
 「三国史記」では、505年に蔵氷を命じた記載があるとか。古来から宮廷にとって氷は必需品だったのでしょう。(By.Y)

  
月城の土石塁の上で涼む市民

石氷室
 

発掘中の北側の濠跡


 雁鴨池(アナプチ)を巡って

 新羅千年の宮廷であった月城東北の雁鴨池(アナプチ)を訪ねました。

 七世紀のころ、文武王が苑池と臨海殿という東宮を作って宴会をしたと伝えられ、かつては「月池」とよばれた庭園遺跡です。

 統一新羅の宮廷の栄華を物語るとともに、その滅亡後は、後世、朝鮮の墨画家が、池の辺りの葦と浮草の間を家鴨と雁が飛び回る風景から「雁鴨池」名づけたその名のとおり、寂しい池となってしまっていたようです。

 現在も発掘調査が続けられていて、午前中見学した博物館の雁鴨池専用の展示室には、ここから出土した仏像や、正倉院御物とそっくりな蝋燭の芯を切るための金銅鋏などが展示されていました。 

 やや涼しくなった池の周りを一周して、出口の手前で、たいへん興味深い石造物を見つけました。

 二つの石の水槽がつながった導水遺構とされる遺跡で、2000年に明日香村で出土した亀形・小判形石造物にそっくりなのです。
 明日香村でこの石造物が発見された時は、その類の見ない珍しさに大騒ぎでしたが、そのルーツは7世紀同時代の新羅にあったのではと思いました。(By.Y)


  
雁鴨池(臨海殿跡)
     
二つの石の水槽がつながった導水遺構                                明日香村で出土した亀形・小判形石造物



 普門湖のほとり

 この夜は、慶州郊外、普門湖(ポムンホ)のほとりのチョースンホテルに泊まりました。
 
 慶州市では観光用ホテルを、市内からこの人造湖を中心とした総合リゾート地に配置し、古都の街並み保存につとめています。
 
 部屋からの望む日暮れの湖の眺めは、とてもきれいでした。(By.Y)

 



 参考HPにリンク→ 「慶州観光・天馬塚」 「天馬塚」 「慶州観光・チョムソン(瞻星)台」
 「慶州観光・アナブジ(雁鴨池)」 koreatips.net 慶州市内TU」