2003年夏  

伽耶・新羅史跡めぐりの旅日記
第4 日目 8月22日 (金) PM

かつての大寺 皇龍寺跡と芬皇寺

 仏国寺からすぐ近くの九政洞方形墳を見てから市内に戻り、午後は統一新羅の仏教繁栄の跡を留める芬皇寺と皇龍寺跡を探索しました。

 月城の東北、雁鴨池の先には広々とした水田や芝生の野原が広がっていて、その向こうにはこんもりした緑の森が見えます。
 奈良の平城宮跡を思わせる景色で、ここには古代東洋で最大規模の大寺皇龍寺の跡と、有名な高僧である元曉と慈蔵が住持した芬皇寺が隣接する森の中にあります。

 皇龍寺は1238年モンゴル軍の焼き討ちのため全ての伽藍を焼失し、巨大な礎石を残すのみになりました。

 芬皇寺も、その規模は縮小し、かつて門前にあった幢竿支柱が、皇龍寺へ向かう水田の中に、とり残されるように高く立っています。
 現代の境内には、今も元曉の法灯を伝える僧坊と、かわいらしい薬師さまを安置した薬師殿、そして秀吉軍侵略の際、倭賊によってその半ばを破壊されて三層のみになった石塔がありました。

  芬皇寺の幢竿支柱  
   亀の礎石を挟むように立つ高さが3.7mの花崗岩製幢竿支柱
    龍頭のついた幢竿(はたぼこ)を立てる支柱で、斎日には龍の口から幢を垂らし、斎のあることを知らせる 
    その後は 皇龍寺の跡

芬皇寺の石塔 

今は3層のみ残っているが、元は5層か7層ぐらいあったらしい 
四隅には獅子をオットセイ、四面の扉の両脇には金剛力士像が彫られている


廃寺跡を歩く

 皇龍寺は東西288m、南北284mの8万平方mの広大な境内に、80m近い九層の木塔がそびえ、金堂には丈六(約5m)の三尊像が安置されていたといいます。

 創建は553年、真興王14年のときで、『三国史記』によれば、「半月城の東に新しい宮殿を造ろうとしたが、そこに黄龍が現われたので不思議に思い、寺を造ることにした」と伝えられ、「黄」と音通の「皇」の字をあて、「皇龍寺」と賜号したそうです。
 
 その後、百何十年にもかけて拡充、改築を重ねて、護国の大寺としてこの地に壮大な伽藍が建ち並び、国王・外国の使節の参拝が絶えなかったといいますが、13世紀にモンゴル軍の兵火を受けてからは、ついに再建されることはありませんでした。

 白鷺が舞う水田の中のその廃寺跡を歩くと、伽藍配置を伝える巨大な礎石が、かつての大寺の記憶をよびさませてくれます。 (By.Y)

 
皇龍寺跡
 

井戸の跡

丈六の三尊を据えた台石
後の基壇と礎石は九層の塔の跡



 

白鷺の舞う水田の向こうには、味呑寺跡に建つ三層塔が見える




十二支像がとりまく統一新羅の王陵
 
 慶州盆地のあちらこちらには、裾周りに護石をほどこし、十二支像で飾った8世紀後半以降の王陵があります。

九政洞方形墳の午の武人像


 十二支像は、唐の影響下、十二支思想を受容して青銅や陶俑の十二支像を石室内立てたのが7世紀末〜8世紀初めで、その後、墳を囲む護石に十二支像が浮き彫りにされたり、丸彫りの像が墳を囲んで立つようになります。
 
 陵墓の十二支像は、統一国家の強い護国的な専制王権を表し、仏教の護国思想とも習合したものといわれますが、実際見てみるとなんとなくユーモアのあるお申さんやお午さんの姿におもわず微笑んでしまいました。


石室内に入れた九政洞方形墳

 九政洞の古墳は、珍しい方形墳。 9.5m四方の一辺に三支ずつのレリーフ像が並んでいます。

 石室内に潜入すると、中は片袖式の横穴石室で、石の棺床がありました。
 一体どなたのお墓なのかは、聞きそびれましたが、ご冥福をお祈りします。


九政洞方形墳

十二支像

石室内部に潜入(出入りの際頭をぶつけて痛かった!)

左袖に格狭間の彫りのある棺床があった


西域風の武臣が守る掛陵

 掛陵に行きました。
 松林の広がるゆるい谷にきれいな円墳があり、その前には石の文官・武臣・獅子が立っています。
 武臣は、西域の顔つきをしていて、ちょっと腰をひねった立ち姿はとてもリアルです。

 墳の腰廻りには、石の欄干が巡り、その中の外護石には十二支像の浮き彫りがありました。

 もう雨は完全に上がっているのに、足元はじめじめ。
 掛陵の名は、「俗伝では、水中に葬り柩を石の上に掛け、土を築いて陵にしたので掛陵と名づけた」と『東京雑記』にあるそうで、どうりで水っぽい地面なのか、なっとくです。

 掛陵(元聖王陵)
  
陵の周りの十二支像の浮き彫り

西域的な顔の武臣
  
頑丈な欄干が十二支像を守る

このレリーフはよく残っている


線路を越えて、聖徳王陵陵へ

 最後は聖徳王陵、あまり行く人は少ないのでしょう。信号機のないカーブした線路を横断。
 孝昭王陵の先に、聖徳王陵があります。

 文臣が左右にまじめな姿で、また陵の周りの欄干の中には、丸彫りの十二支像が立っています。
 残念ながら、ほとんどが頭部を欠いていたりして保存状態がよくないのですが、完形で残っている申像はさすがにすばらしい彫像でした。

 前方50mぐらい手前の水田に何かあるというので行ってみました。
 巨大な亀趺が残されていました。この上にりっぱな石碑が乗っていたのでしょう。
 土中に埋もれていたのか、亀の足のつめが風化せずきれいに残っていました。(By.Y)
  
聖徳王陵





線路を越えて(去年の夏も中国で経験)

聖徳王陵の申像

文臣像

水田の中に何かがある?

巨大な亀趺が遺されていました

  

 この日は、早めに見学が終ったので、私は再び慶州博物館に寄りました。

 掛陵の西域風武臣像や、聖徳王陵の申像など、今日野外で見た彫像のレプリカともご対面です。
 静かな博物館で、皇龍寺跡から出土した弥勒像などじっくり展示品を見ることができました。

 慶州最後の夜です。普門湖に夕日が落ちていきました。  (By.Y)




 参考HPにリンク→ 「慶州観光・皇龍(ファンリョン)寺」 「慶州観光・芬皇(ブヌァン)寺」