曼荼羅の世界・塔谷の磨崖仏群
南山巡りの道は、ひとつひとつの谷を下りては登り、そのたび毎に自然のおりなす景色が変わります。
塔谷の道は、清らかな渓流に沿って登っていきます。
玉龍庵という小さなお寺の奥へ進むと、見上げるような垂直の岩壁に、なにやらさまざまな彫り込みがあります。
近づいてみると、右手の北面には大きな二つの塔、真ん中に座像が彫られていました。
塔は、皇龍寺の九層塔と芬皇寺の塔の並び立つイメージを伝えているのでしょうか。
左手に曲がった東面には、日の光りが木の間隠れに当たって見難いのですが、蓮華の上に如来像が彫ってあり、天空には天女が舞っています。
塔谷の渓流 |
高さ9mの岩に曼荼羅の世界が彫られている
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東面の如来像 |
北面 塔の間に座像 |
岩に沿ってぐるっと斜面を回って登ると南側に、摩滅しているがかわいらしげな三尊が並んで浮き彫りされています。
左には下腹を手で押さえたようなかっこうの大きな立像があります。
顔は削られてなく、女性からお産のカミサマと信仰されているとか。
この山には、仏教ばかりではなく、呪いをする巫女なども多く住んでいて、民衆の要望に応えていると、ガイドさんから聞きました。
この南側の高台には、三層の石塔も立っていてます。
西面にも坐像が彫られているようで、この岩全体が、曼荼羅の世界を表しているのか、とても不思議な雰囲気が漂っていました。
左側に背の高い立像、右には三尊仏、首をかしげた菩薩の右には天女 |
南側高台の三層塔 |
仏谷のオバサマ顔の仏さま
また谷を下り、道しるべにしたがって次の仏谷へと向かいました。
文化財と自然とを守りながら、この聖地が整備されているのが心地よく感じられます。
この仏谷の奥にも俗化されない小さなお寺があり、朝の勤行の読経の声が聞こえてきます。
そしてここからまた徒歩。今度は本格的な山道です。
足元に注意して登っていくと、大きな岩の上に出ました。
右の大きな岩に穴が穿たれ、その中に仏さまが座っていらっしゃいます。
ふっくらとした顔、衣もゆったりとチマチョゴリをまとっているよう。
石龕(石をくりぬいた祠)に入っているので、「仏谷龕仏」と称されるのだそうですが、石龕がとても窮屈そうです。
ガイドさんは、田舎の年配のおばさんみたいと説明されたが、なるほど石窟庵の石仏とは対称的な、たいへん庶民的な親しみの感じられる仏さまでした。
お寺から仏谷龕仏へはすてきな山道(登山靴を履いてきてよかった)
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あさの読経の声が響きます |
硬い花崗岩に石龕が彫られています
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親しみの感じられる仏さま |
微笑みの拝里三体石仏
東南山から尾根の向こう側の南山西麓へバスで向かい、鮑石亭(ポソクジョン)址と拝里(ベリ)三体石仏、そして最後に三陵を見学しました。
禅房谷の拝里三体石仏は、鎌倉の禅寺を思わせるようなたたずまいの三仏寺の境内にあります。
もともとばらばらに倒れていたのを1933年に立直したとのことですが、三尊とも丸彫りの豊満で重厚な大石仏でした。
中央の本尊、左脇侍の微笑みは、新羅を代表する笑みといえそうで、楽しく安らかな感じを与えてくれます。
今は、文化財保護のため、覆い屋の中に奉られていて、露座だった時のようなきれいな写真は撮影が難しく、その点は残念でしたが、南山を代表する石仏を拝観できて、今回の旅行の目的は全て達せられたように思いました。 (By.Y)
新羅の滅亡の夢の宴・鮑石亭址
少し時間に余裕があったので、拝里三体石仏の前後に、鮑石亭址と三陵を見学できました。
鮑石亭址は、アワビの形の石造りの溝が残っていて、王侯貴族の宴遊の離宮だったとされています。
緑陰でボランティアの女性の丁寧な説明をお聞きし、ここで詩を読みながら溝の水に杯を浮かべて曲水の宴を行なった姿を想像してみました。
花郎たちも遊び、また憲康王がここに幸した時、南山の神が現れて舞ったという記録があるそうです。
そして統一新羅も927年、景哀王がここで宴を張る途中、後百済のギョンフォンに襲われ、新羅千年の歴史の幕を下ろしたのでした。
連日、新羅繁栄の史跡や遺物をたっぷりと味わった旅でしたが、王国の歴史に終止符を打った場所もこうして見学でき、感慨無量でした。
鮑石亭址 |
三陵 |
最後は三陵のお参り
最後は、三仏寺近くの三陵を案内していただきました。
南山の美しい尾根を背景に三つの円墳が並んでいます。
神徳王・景明王・阿達羅王の陵墓といわれ、今もその子孫の朴氏が祖先への祭事を欠かさないそうです。
ちなみにガイドの朴さんもその子孫のおひとりですが、女性なのでその祭りには参加したことがないとのことでした。
すばらしい慶州とその郊外の旅は、ガイドの朴さんの祖先の王陵でとうとう終わりになりました。(By.Y)