2004.5.22
By.ゆみ

「旧高津村」研究調査資料


高津山観音寺の間宮氏史跡と史料


高秀霊神社の鳥居と参道

この神社は、大阪夏の陣で戦死した正秀を、子孫方好が祠を建て祀ったことに由来する

高秀霊神社(今は石碑のみ)
 
高秀霊神社碑

間宮士信(ことのぶ)公墓地

間宮士信公顕彰碑(クリックで拡大)

高津村領主間宮士信公顕彰之碑

公ハ江戸期ノ旗本高津村領主間宮家十代当主ニシテ諱ハ士信 通称ハ庄五郎 白水ト号ス

抑々同氏発祥ノ淵源ハ 宇多天皇第九皇子敦実親王四代源朝臣兵庫頭成頼佐々木ヲ称シ 其ノ玄孫万石五郎大夫行定ノ裔兵庫頭信之 元応年間ニ始メテ間宮ヲ称ス
 亦其ノ裔東国ニ下リテ相州大森氏ニ属シ四代ニ及ビシモ 明応四年大森信濃守藤頼滅亡後ハ 後北条氏ニ仕ヘ常ニ御先手ノ大将トナリテ軍功ヲ重ネ 遂ニハ小田原二十将衆ニ其ノ名ヲ列ネシ名族ナリキ

公ノ祖ハ其ノ一門ニシテ 天正年中武州八王子城主北条陸奥守氏照ノ宿老間宮若狭守綱信ノ子息民部少輔正重ナリ
 主家没落年ノ天正十八年九月 後ノ征夷大将軍徳川家康ノ麾下ニ加ヘラレ 武州小田村並ビ当村ニ采地三百石ヲ給サレ陣屋ヲ当地ニ置ク
 二代正秀ハ 元和元年五月七日大坂夏ノ陣ニ於テ討死シ 御首ハ家臣ノ岩井源左衛門祖仁山良雄奉ジ来リテ 当地高津山観音寺ニ埋えいセリ
 三代正勝ノ代 時ノ将軍徳川家光其ノ忠死ヲ賞賻サレ 五百石ノ加恩アリ 総ジテ八百石ヲ知行ス

公ハ安永六年 書院番士公信ノ二男トシテ江戸屋敷ニ生ル
 幼ニシテ聡頴文武ニ優レ乗筆ヲ能シ 寛政十年五月四日嫡兄早世ノ故ヲ以テ家督ヲ継グ
 始メ十一代将軍徳川家斉ニ近仕シ小納戸タリ 
 寛政十二年三月西丸小姓組番士ニ進ミ 享和元年四月書院番士ニ転ジ 時ノ大学頭林述斎公ノ才学識ニ長有ルヲ知リテ 昌平坂学問所勤番ニ推挙サル
 文化七年同所内ニ地誌取調所ガ置カレルヤ 書物取調出役トナリ布衣ヲ許サル
 其ノ頃多クノ学侶ト会遇シテ儒道ヲ極メ 同九年調方頭取ニ推サレルヤ 予テヨリ念望ノ小田原編年録ヲ著シ 文政二年ニハ 調方総裁ニ進ミ 新編武蔵風土記稿ヲ始メ数多ノ地誌典籍ヲ編纂シ 学者士信ノ名ヲ天下ニ知ラシメ 天保二年西丸小姓組与頭 同十一年二ノ丸留守居ニ昇進シ 翌十二年七月二十四日新編相模風土記稿完成ヲ目前ニシテ没ス
 時ニ六十五歳 得成院殿賜布狩衣最正日覚居士位ハ公ノイ諡号ナリキ

就中公ハ恩愛ヲ旨トシ 天保十一年ニハ 当村ノ小前長寿者孝子節婦二百六十余人ニ粳米金子ヲ贈恤シテ領民ヲ撫育シ 更ニハ力田愛護ニ意ヲ尽シ其ノ信望ハ最鉅タリ
 然レド命根絶入ヲ覚ルヤ 己ガ骸骼ハ遠祖正秀ノ塋地ニ埋えいスベシノ遺言有リテ 遺骸ヲバ観音寺ニ埋塋ス
 爾来百四十有余年 公関与ノ典籍ハ燦然ト光耀シ 万人ノ利スルト雖モ文史ニ半生ヲ捧ゲシ公ヲ識ル者 一握ニシテ建者ノ慨嘆頻リナリ
 因ッテ公ノ塋地ニ一碑ヲ献ジ 其ノ偉業遺徳ヲ頌美讃嘆シ 万衆ニ弘宣ス

岩下白鮮書

(原文はkagokakiさんの入力によるものです。ネット上、一部の漢字はひらがなにて代用しています。
また読みやすくするため行換えや字間空けしてありますので、史料とする場合は、碑文画像を参考にしてください)



観音寺所蔵間宮氏の位牌

No.1


耕雲宗三居士              (信盛 法名宗三
久庵道徹居士              (綱信 法名久庵)
渓雲宗林居士              (正重 法名宗林)
常秀道意居士 元和元乙卯年五月七日   (正秀 法名常秀 1615)
寶林日珠居士 寛文十一辛亥年正月五日  (正勝 法名日珠 1671) 
正翁道端居士
No.2
(間宮士信位牌)

天保十二年歳次辛丑          (1841)
得成院殿賜布狩衣最正日覺居士霊儀
七月丙申十三日丙寅
No.3

嘉永四辛亥年      
(1851)
正孝院殿仁譲日進居士  霊位
十月五日
 銘文不明
本ページは「さわらび通信」管理人個人のページではなく、八千代市郷土歴史研究会の共同調査データの会員用速報ですので、八千代市郷土歴史研究会会誌・会報以外への引用・転載については必ずご連絡ください→QWR07752@nifty.ne.jp


「谷中の長明寺の間宮氏墓地調査記録」へ  郷土史研通信へ戻る