2003.10.25(By.ゆみ)


2003年三山七年祭ドキュメント-第4章

七年祭を迎える人々 in 高津etc

女たちの七年祭T (in高津2003.10.18)

 10月18日の土曜日、高津の旧家の大奥様にお話を聞く機会がありました。

旧家の「タナヤ」だった池.。
ここに山車の地車をつけておくのだが、今は水がかれている

 中世の高津館跡を背後にしたキューゼムさんという屋号の立派な旧家です。

 畑仕事をしていた80歳過ぎの大奥様にお声をかけると、気軽に邸内に案内してくださり、七年祭の屋台(山車)の車(地車という輪切りにした松材)を沈めておく池などを見せてくださりました。
 昔から、苗代に使う種籾を漬けて冷やしておく神聖な「タナヤ」であった池の水はかれていました。
 中世館跡の背後の山とその先の台地が開発で緑を失って、絶えることのなかった湧き水がもうほとんど出なくなり、ポンプアップした井戸水を注水しても、夏は水位を保つのは難しいのだそうです。

 この家に生まれ、婿取りをした大奥様は、三山の二宮神社には、七歳の帯解きの祝いの時にお参りに行ったきり、行ったことがないそう。
 花流しのとき神輿が休憩するヤドになるので、その接待のごちそう作りや、親戚が泊りがけで見物に来る世話で休むひまもなく、祭りを楽しむ余裕はなかったとのことでした。

 今は、各屋敷の中ではなく、通りに面した畑や空き地、駐車場などに9ヶ所の神輿の休憩所を設けます。
 そして休憩所を接待する班は、各戸ごとに、御重一重のご馳走を持ち寄るとのことでした。

 神事はすべて男性で準備、執行されますが、陰で支えているのは、女たち。
 今は、だいぶ省力化されているそうですが、やはり旧家の女性たちはたいへんなようです。



ダンナ衆による注連縄張り
 (in高津2003.10.25)

 祭礼まであと1週間。今日も、また高津の祭礼準備を取材。
 ダンナ衆ともすっかり顔なじみになり、実行委員長の軽トラに同乗させてもらったりしながら、注連縄張りの現場を撮影させていただきました。

 高津は4つのニワ(新田・南・西・中村の4地区)に分かれていて、各ニワ毎に作業をします。

 注連縄の数は、3kg単位に巻いた細い荒縄が全部で31個、障子紙で作った幣束が全部で1500枚。
 これを朝9時に集まって、各ニワごとに3名ぐらいで、神輿の渡御するルート、各氏子の家に張っていきます。

 市議会議員をやっていても本職は農家だったり、植木園芸会社の社長さんなどのプロの方々。
 軽業のようにブロック塀にひょいと乗ったり、腰につけた挟で縄を切ったり、手際よく各家の庭木や門柱に固定していきます。

 幣束は、固く撚ってある縄を逆に捻って弛め、幣束を差し込みます。
 高津は、細い路地や長い塀の旧家が多く、縄の長さもばかになりません。

 昼すぎようやく、作業が終わり、ムラのたたずまいは、すっかり祭りを迎えるムラに変身しました。


神社の入り口も注連縄が張られて・・ あとはアーチが飾られるのを待つのみ。

ひょいと塀に乗って身軽な委員長。 交差点の向こうは高津団地



縄の撚りを逆に捻って幣束を挟みます


交通規制予告の看板立てもすみ、 ここのヤブにも注連縄を張ります。
 

女たちの七年祭U (in高津2003.10.25)

花流しで最後の第9休憩所となるシチゼム家の畑

シチゼム家の隣の旧家も注連縄が張られて・・・
 花流しで最後の休憩所となる畑では、旧家シチゼム家の奥様が作物を整理し整地する作業をしておられ、また ちょうどお姑さんが家から出ていらしたので、昔の七年祭のお話をしていただきました。

 七年祭の準備では、3時起きで作る赤飯などの賄いの仕事もたいへんでしたが、それ以前の農作業や衣装の縫い物もたいへんだったそうです。
 秋の稲刈り、芋ほりなどの農作業はいつもの年より早く済ませるため、ムラの外の親戚に応援を頼む年もあったとか。

 衣装は、今のようにプロに仕立てを頼むのではなく、反物を全部女手で縫い上げました。
 印半纏も裏のついた袷で、下着も裏付き。
 さらに金棒や高張りの役は、黒の股引に女物・男物の晴れ着を何枚も着重ねますから、これに家族の晴れ着を加えると、たいへんな数。
 ひたすら針仕事に精を出したそうです。

 二宮の祭りの日は、髪を結って晴れ着を着た娘さんたちが三山へ見物の行くイエもあったそうですが、このお姑さんは嫁に来てから三山へは行ったことがなかったとのことでした。

 今は、2日当日貸切のシャトルバスが三山を往復して、家族で祭りを楽しみに行くことも可能になったそうです。
 
 この畑が3日の花流しの休憩所になるのは、午後7時過ぎ。「朝からたいへんでしょうが、ぜひ来てね」とお声をかけていただきました。

次は、祭り前日のルポです